信仰が喜びを生む

池田真理

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信仰が喜びを生む

(フィリピの信徒への手紙 2:1-11 マタイ5:3-12, 13-16)

 

 東日本大震災から今日で7年が経ちました。震災で多くのものを失った人たちにとって、このフィリピの手紙で繰り返し言われている「喜びなさい」という言葉は、励ましよりも怒りを感じさせてしまうかもしれません。神様なんているのか、いるならなぜこんな苦しみを味わわせるのか。それは震災だけに限らず、私たちが人生の中で起こってくる様々な出来事の中で感じることです。神様は良い方で、それぞれの人生に良い計画をお持ちだと言われても、信じられない時があります。でも、神様を信じるということは、もともと自分には見えていないことを信じるということでもあります。ヘブライ人への手紙にこういう言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)神様なんていないと思ってしまう状況の中でも、神様を信じることができるのが神様の力であり、神様が私たちに与えてくださった信仰です。それが、私たちにどんな時でも喜ぶことができる力の源です。パウロの言葉を読んでいきましょう。

A. 不信の中で主を信頼する (12-16a)

12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、16 命の言葉をしっかり保つでしょう。

1.  神様の意志が私たちに働いているから

 このフィリピのシリーズで読んできたように、パウロは今牢に入れられていて、フィリピの人たちはパウロのことをとても心配していました。なぜ神様はパウロをこんな目に遭わせるのか、私たちの祈りを早く聞いてくださらないのか。フィリピの人たちは神様を信じていましたが、厳しい状況に心を痛めていたことは間違いありません。そんな彼らにパウロは言います。「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい。」この「従順でいなさい」というのは、パウロに従順でいなさいということではなく、神様に従順でいなさいということです。それは続く言葉からすぐに分かります。パウロはここでフィリピの人たちに、自分がいないからといってサボってないで一生懸命働きなさい、と言っているのではありません。自分と会えないことをフィリピの人たちが悲しんでいるのを知っていて、そんな時はより一層、神様を信頼してほしいと言っているのです。それは、嬉しい時だけではなく、苦しい時はなおさら、神様を信頼して、神様に従ってほしいというパウロの願いです。そして、それがあなたたちの救いを達成することになるとも言っています。どんな時でも神様を信じて、神様を信頼して従うことができたら、それ自体が私たちの救いになるはずです。そして、それはすでに神様が私たちにそうできるようにしてくださっていることです。
13節がその理由です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」神様のことを知りたいと願い、神様を信じたいと願う気持ちは、人間が自分で作り出すものではなく、神様が与えてくださる願いです。そして、イエス・キリストは私のために死なれたと信じることも、私たちは自分の力でするのではありません。神様が信じる力を与えて下さらければ、私たちは信じることはできません。私たちは、目の前に起こってくる状況によって、神様のことが分からなくなったり、分からなくなる自分を責めたりしますが、それは私たちが自分の力では神様を信じることはできないことを思い出すためかもしれません。目の前が真っ暗でも、イエス様が十字架で死なれた事実は変わりません。それが私のためだったという事実も変わりません。そして、その事実を知って、イエス様を信じて生きていきたいと願う気持ちが変わらないなら、私たちのうちにはやっぱり神様の意志が働いてくださっていることになります。神様は、私たちが見えていること、考えていることをはるかに超えて、良いことをなさろうとしています。私たちが生きている間に実現されるものもあれば、生きている間には到底良いとは思えないままのこともあると思います。でも、一人一人に働く神様の意志は、不思議な方法で全てを神様の良い計画のために結びあわせ、必ず実現されていきます。私たちのうちに働く神様の意志を信じましょう。それが、この世界の中に希望の光をもたらします。

 

2.  それが「世の光」となる (マタイ 5:13-16)

私たちがただ自分たちのうちに働く神様の意志を信じて生きる時、私たちは「非のうちどころのない神様の子」です。多分、フィリピの人たちの中には、14節にあるような、不平や理屈を言っている人たちもいました。それは多分お互いに対して不満があったということですが、そんなことはやめて、互いに神様の意志を信じることに集中しなさいとパウロは勧めています。私たちはみんな不完全で、間違いを犯すことがあります。完璧になってからでないと神様の子になれないとしたら、誰もなれません。神様は、私たちがそういう存在であることを知っていて、目指すべき方向を示してくださいました。そして、それぞれがそれぞれの場所でその方向を目指してさえいれば、元がどんなであれ、今がなんであれ、同じように喜んでくださいます。十字架で示された神様の愛に基づいて、それを目指して生きるということです。神様の愛が自分のうちに働いていると信じて生きていくこととも言えます。それが信仰の歩みであり、神様の意志に従うということです。私たちは自分の考えも行動も、神様に委ねます。互いのことも神様に委ねます。委ねるということは、自分が良いと思うことではなく、神様が良いと思うことに従うということです。それをお互いに求め続けることによって、私たちは神様の愛を互いに表すことができます。それが結果的に、パウロの言葉でいうなら、この世界の中で「星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ことになります。
これはパウロもイエス様の言葉から学んだことです。イエス様の言葉を読んでおきたいと思います。マタイ5:13-16です。

13 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

悪い状況の中でも神様の良い計画を信じるとき、私たちは地の塩となり、世の光となります。パウロの言葉の続きを読んでいきましょう。

 


B. 苦しみの中で誇り、喜ぶ (16b-18)

こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

1.  信仰を伝える誇りと喜び

 パウロにとって、イエス様を信じる信仰を伝えることは自分の働きであると同時に、神様の働きでもあり、そしてフィリピの人たちの働きでもありました。このフィリピの手紙の最初に、パウロとフィリピの人たちと神様で、喜びの三角関係があるとお話ししましたが、それがここにもまた現れています。フィリピの人たちが信仰によって立ち、互いに主イエスを信じる喜びを分かち合う時、それはパウロの喜びであり、神様の喜びでした。そしてまた、パウロがフィリピの人たちのために働いたという誇りは、彼が神様のために働いたという誇りにつながっています。パウロは「わたしにとって生きるとはキリスト」だと言って、生涯をイエス様のために捧げました。それは同時に、フィリピの人たちを始め、多くの人たちのために生涯を捧げたということでもあります。そして、その生き方をフィリピの人たちが受け継いでくれるなら、つまりフィリピの人たちもパウロのようにイエス様のために人生をかけてくれるなら、たとえ殺されることになっても悔いはありませんでした。そして、ただイエス様を共に信じることにおいて、喜びなさいと言っています。
私たちは、パウロのようなすごい信仰は持っていないし、パウロのような生き方はできないと思うかもしれません。でも、今日前半でお話ししたように、私たち一人ひとりのうちに神様の意志が働いています。それぞれに与えられている役割は違いますが、みんな神様の良い計画のために用いられています。私たちが自分のうちに働く神様の良い意志を信じ、苦しみの中でも喜びを失わない時、その喜びは周りの人にも伝わります。また、大切な人が苦しんでいる時に、共に苦しみながら、それでもその人に対する神様の計画を信じて希望を失わずにいられたら、その人にとっての光になれます。信仰は、そのようにして私たちのうちに、私たちのまわりに、喜びを生み出すことのできる力です。
最後に、もう一つイエス様の言葉を紹介します。山上の説教と呼ばれる有名な言葉です。マタイ5:3-12です。

 

2.  信仰の幸い (マタイ5:3-12)

3 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。
9 平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 ここで言われているのは、最初に紹介したヘブライ人への手紙の言葉を具体的にしたものです。「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです。」見えない事実とは、神様の良い計画、良い意志です。望んでいる事柄は、その良い計画が実現されることです。信仰によって、神様の良い計画を確認し、それが実現されることを追い求めましょう。それによって私たちは、地の塩、世の光となり、どんな状況においても喜びを伝える者となります。

 


メッセージのポイント

神様を信じられない時にこそ、信仰は私たちの力によるものではなく、神様の意志によるものだということが分かります。神様は私たちに、信じたいという願いを与え、良い計画のために導いて下さいます。私たち一人ひとりがそのように神様に導かれて歩む姿が、他の人にも希望を与えます。そして、この信仰を伝え続けていくことが、私たち自身の中に喜びを生み出します。

 

話し合いのために

1) 神様のことが分からなくなる時、どうすればいいですか?
2) 信仰を伝える喜びとは?

 

子供たちのために

13節に注目してください。神様を信じる心は、神様が私たちに与えてくださっているものです。私たちは誰も自分の力で神様を信じ続けることはできません。悲しいことや辛いことがあった時は、神様に「助けて」と祈ってください。神様はすぐには答えてくれないかもしれませんが、必ず一人ひとりに分かるように答えてくれます。そうやって、「神様は本当にいる、本当に良い方なんだ」ということを神様に直接教えてもらってください。