とこしえに神の慈しみに依り頼む

永原アンディ


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とこしえに神の慈しみに依り頼む (詩編 52)

序 神様に愛されていたダビデ (1, 2)

1 【指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。
2 エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき。】

 詩編の編集者がつけた表題の部分です。この歌が本当にダビデによるものだと考える聖書学者はほとんどいませんが、このように考えた編集者の気持ちがわからないわけではありません。まだ読んだことがなければ、今週、サムエル記上17節から読んでみてください。確かにダビデの生涯と人生観に重なるところがあるのです。ダビデはユダヤ歴代の王の中で最も偉大で人気のあった王です。王になる前、サウル王の若い部下として活躍し彼より人気があったので、サウルは彼を妬み、憎んで執拗に殺そうとし続けました。ダビデは、逆にサウルを殺すチャンスがあったのにもかかわらず、親友の父でもある王サウルを手にかけることはできませんでした。ただ神様を信頼して、逃げ隠れしていたのです。このようなダビデを神様は愛し、守られました。

もちろん私たちはダビデのダメなところもたくさん知っています。しかし神様が愛するのは、正しいことを貫ける人、倫理的に間違いを起こさない人ではないのです。先週の表題で知ったように、ダビデも自分の欲望に負けて部下を死に追いやりました。結果的には、ダビデを殺せなかったサウルより悪いと言えるかもしれません。しかし神様は、その結果を見るのではなく、何度失敗しても、神様により頼もうとするダビデを愛されました。それはあなたも神様に愛されているという保証でもあります。アベルを殺してしまったカインを保護した神様です。神様は、その末裔である私たちを愛しています。ただこの愛に応えて生きるのか、それとも背いて生きるのかで人の人生は全く異なるものになってしまいます。ここに描かれている力ある者が、ダビデを苦しめたサウルの人生と重なる、神様に背いて生きる者の典型です。

 


A. 世界に現れている強く大きな悪の力(3-5)

3 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないが
4 お前の考えることは破滅をもたらす。舌は刃物のように鋭く、人を欺く。
5 お前は善よりも悪を正しい言葉よりもうそを好み〔セラ
6 人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。

 あなたはこの部分でどのような人を思い浮かべるでしょうか?例えばヒトラーなら、ほとんどの人に異存は無いでしょう。巧みな弁舌で人々の心を掴み、人気を得ました。彼は民主的な選挙で権力を得てから、悪賢く独裁者の地位を手に入れました。ダビデにとってはサウルでした。現代の会社ならパワハラを行う上司でしょうか?先週は、権力を批判したジャーナリストが、海外にあるその国の総領事館で殺されてしまうという事件が起こっています。残念ながらそのようなことを行う国は珍しくありません。民主主義国家といわれる国々にもそうなってしまう兆候が表れています。悪事を誇る力ある者たちが、自分たちの利益のために世界を滅亡させてしまうのでしょうか?詩人は、彼らに苦しめられてますが、そう考えてはいないようです。

 


B.自分に依り頼む者の結末 (7-9)

7 神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き命ある者の地から根こそぎにされる。〔セラ
8 これを見て、神に従う人は神を畏れる。彼らはこの男を笑って言う。
9 「見よ、この男は神を力と頼まず自分の莫大な富に依り頼み自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」

 神様は、ヒトラーがそうであったように、神を恐れない者をそのままにはしておきません。詩人も、そう信じています。うまく、自分の子供に権力を譲ることのできた独裁者もいますが、それを何代にもわたって維持することはできません。
とはいえ、私たちの人生の長さも彼らと相違はありません。生涯にわたって、彼らから苦しみを受け続けるということもあるのです。アメリカの奴隷制度は200年以上続きました。奴隷のことして生まれ奴隷として亡くなった世代が続いたということです。今年ノーベル平和賞を受けたのは、性的虐待の問題に取り組む二人の人でした。その一人ナディア・ムラドさんはISによって性奴隷とされたヤジディ教徒の女性です。ISの支配は長くは続きませんでしたが、彼らの心の傷は何代にも渡って癒える事はありません。
日本人も、同じアジアの国に住む人々を同じように苦しめてきた歴史があります。どの国民、民族でも、消すことのできない汚点を持っているのです。それは私たちが個人として自分を振り返る時にも当てはまります。つまり私たちは、誰も神様の前に胸を張って「自分は正しい者です」とは言えないということです。使徒パウロは、次回お話しする53編を引用してこう言っています。

9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(ロマ3:9-12)

パウロは勝手にそう言っているのではありません。イエスの教えに従ってこのように言ったのです。ルカによる福音書18:9-14を読んでみましょう。

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 私たちは皆、自分に頼って生きる限り、良い結末は期待できないということです。どうしたらよいのでしょうか?11-12(8-9)節を読みましょう。

 


C. 世界で生き抜くための私たちの力 (10, 11)

10 わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
11 あなたが計らってくださいますからとこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきますあなたの慈しみに生きる人に対して恵み深いあなたの御名に。。

 これが私たちに与えられている希望です。神様の慈しみだけが、私たちにこのような世界を生き抜く力を与えてくれます。
神様は、逃亡中のダビデを助け慰められたように、奴隷の生活を強いられた人々にも信仰の共同体を与えられたように、より頼む者に生き抜く力を与えてくださいます。もちろん私たちは、そのような不正義に対してできる限り戦うべきです。それは、迫害される者の側に立たれるイエスの戦いです。神様がなんとかして下さるのだから、自分には関係ないと何もしないのでは、イエスに従うことにはなりません。でも、それは私たちが正しいから神様に変わって世を裁くのだというようなことではないのです。それではあのファリサイ派と同じになってしまいます。そうではなく、「自分の内にもある深い罪の性質を自覚しながら、罪の犠牲となり苦しむ人々の力になろうとする」というです。
自分の罪深さ弱さを知っていて、だからこそ神様に頼る者でなければ、誰かに向かって「神様に頼りなさい」と言っても聞いてはもらえないでしょう。だから私たちも、「とこしえに神の慈しみに依り頼む者」として歩んでゆきましょう。

 


メッセージのポイント

目に見える世界では富、権力を持ち強い者の不正義が弱い者を苦しめ続けています。中には、この世界をしぶとく生き抜く悪人もいますが、自分に依り頼んで生きる力ある者の多くは、やがてその力を奪われ転落します。しかし私たちは、決して転落することのない、確かな生き方を知らされています。それは、永遠に神と共に歩むこと、神にのみ依り頼むことです。

 

話し合いのために

1) 人を滅ぼす力を持っているのはどのようなものですか?
2) どのようにしてこの世界を生き抜くことができますか?

 

子供たちのために

子供達には、サムエル記上の物語をダイジェストして、ダビデの話をしてあげてください。まだ王になる前のダビデはサウル王に仕えていましたが、王はダビデの人気を妬み、ダビデを何度も殺そうとしましたが、神様は色々な人を用いてダビデの命を守りました。一方でサウルは先に戦死してしまいました。二人の違いは「自分により頼む」か「神様を依り頼むか」という点です。子供達にも自分の能力や持っているものが幸せをもたらすのではなく、それらがなくても神様を信頼して生きることが幸せをもたらすのだと励ましてください。