神様を本当に知っていますか?

永原アンディ


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神様を本当に知っていますか?(詩編 53, 14)

1 【指揮者によって。マハラトに合わせて。マスキール。ダビデの詩。】
2 神を知らぬ者は心に言う「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
3 神 (14編 : 主) は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
5 悪を行う者は知っているはずではないかパンを食らうかのようにわたしの民を食らい神 (14編 : 主) を呼び求めることをしない者よ。
6 それゆえにこそ、大いに恐れるがよい

かつて、恐れたこともなかった者よ。
あなたに対して陣を敷いた者の骨を神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。
(14編:神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても主は必ず、避けどころとなってくださる。)

7 どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。神 (14編 : 主) が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるときヤコブは喜び躍りイスラエルは喜び祝うであろう

 

A 神か主か?(53編と14編の違い)

今日は詩編シリーズとして53編を取り上げるのですが、53編は14編とほとんど同じです。そのような重複は他にも見られます。それは詩40:14~18と詩70、詩57:8~12+詩60:7~14と詩108です。それぞれに事情がありますが、53編と14編との差異にも興味深い点があります。

まず1節ほとんど丸々入れ替わっている部分があります。それは6(5)節です。冒頭の「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい」という部分以外は全く異なっています。この違いは、詩編が歌われたものだということに関係しているのだと思います。指揮者によって、内容が入れ替えられて歌われるということがあったのでしょう。神殿礼拝で歌われていた歌の中には、聖書には採用されなかったものが多くあったのです。

実はもう一つの違いの方が重要で、今日の主題とも関わるので注目してください。

それは14編では使われていた「主」(ヤハウェ)という言葉が全て「神」(エローヒーム)に置き換えられていて、53編では全く使われていないということです。皆さんは、神様の名前を知っていますか?神様はモーセに名前を聞かれて「わたしはある」と答えられました。モーセの顔が「?」が浮かんだので、神様は「わたしはある」という者だと続けられました(出エジプト記3:13,14)。これが神様の名前「ヤハウェ」です。しかし、ユダヤの民は、「神の名をみだりに唱えてはならない」という教えを守ってこの名を口にしませんでした。そういうわけで旧約聖書原文には、「יהוה(ヤハウェ)」の文字はあるのですが、ユダヤ人は、これをアドナイ(私の主)と読み替えます。私たちの聖書もそれにならって「主(Lord)」と書いています。アドナイは言葉自体は固有名詞ではありませんが、ヤハウェを言い換えたものとして固有名詞として意識されていました。それは民族の神を意味する言葉、つまり他の神々がいろいろある中で、私たちの神様というニュアンスだったということです。

14編では、神様をそのように意識していたということです。ところが、ユダヤの民は、周辺の国との関係の中で、神様がただ自分の民族の神ではなく、すべての民の神なのだと意識するようになり、固有名詞ではなく、創世記の最初に用いられた、世界の神=エローヒームと言い換えた歌詞(53編)で歌われるようになったようです。しかし、14編の個人的、民族的な信仰の表現にも価値が認められ、両方とも詩編に採用されたのだと考えられます。私の神学校の先生の先生である渡邊善太という旧約学者の本で教えられたことです。
このことが教えてくれていることは、神様のことを考えるとき、「神様と私」とか「神様と私たち」という視点だけではなく、「神様と人類」さらには「神様とすべての被造物」という視点が必要だということです。このことは、これからお話しすること、さらに今日の午後の講演会の意味とも深く関係しています。

 


B 神様を知っているとは?
1. 神を知らない者、悪を行う者とは?

それではもう一度、2-5(1-4)を読んで見ましょう。

2 神を知らぬ者は心に言う「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
3 神 (14編 : 主) は天から人の子らを見渡し、探される 目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
5 悪を行う者は知っているはずではないかパンを食らうかのようにわたしの民を食らい神 (14編 : 主) を呼び求めることをしない者よ。

 2節を読んで、「私は神様がいると信じているから、神様を知っている者で、異教徒とは違い、腐敗していない!」という人こそ、実は「神様を知らない者」だというお話をします。神様は「私を信じるものは善で、私を信じないものは悪」だと言っているのではありません。善を行う者は「いない!」と言っているのです。神様は目覚めた者、神を求める者をいつも探しています。しかし少なくとも、この時代には一人も見いだせなかったと歌われているのです。「4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」興味深いのは「背き去った」と言われていることです。それは、「神を知らない人」の意味には、まるで神様を知らないかのように、神様の意思に反することをしている人も含まれているということです。それは、自分のことを神の民と自覚している人の中にもいるということです。聖書は、聖書の神を知らない、あるいは信じない人を悪=神を知らない人、ユダヤ教徒とキリスト教徒が善=神を知っている人という単純な二分法を主張しているわけではないのです。

 

2. 目覚めた人、神を求める人、善を行う者とは?

  それでは、3節に書いてある「目覚めた人、神を求める人、善を行う者」とはどのような人でしょう?それは神様の意志を知り、それを行う人です。しかし、お話をしてきたように、そんな人はどこにもいないのです。聖書の神様を信じる人がそうなれるという話ではないのです。創られた人間の全てが、失格なのです。ところが、自分は神様を知っていると思いたい人間は、自分も、すべての人と同様に神様の「善」の基準を満たさない失格者であることを認めらません。そして、他人の自分と異なるところを指摘して「あなたは “神様を知っている”私 とは違う、神様を知らない者、神様に背いている者だ」と線を引き、壁を築くのです。そして自分はこちら側にいるのだと安心することが「信仰」だと勘違いしています。自分の引いた線の向こう側にいる人を「回心」させて、こちら側に入れることが「伝道」だと勘違いしています。しかし、そういう人々が「神の民」ではないのです。ではどのような人が神の民と呼ばれるのでしょうか?7節をもう一度、読んでみましょう。

 

3. 神の民とは?(7, 6)

7 どうか、イスラエルの救いがシオンから起こるように。神 (14編 : 主) が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるときヤコブは喜び躍りイスラエルは喜び祝うであろう。

 これは実際には、ユダヤがバビロニアに滅ぼされ人々が連れ去られ、のちにペルシャにバビロニアが負けて、解放され帰還することができた民族的記憶が背景となった表現です。しかし、ユダヤ人ではない私たちに無関係な記憶ではありません。今日最初にお話しした、創世記の話に戻ります。これは被造物共通の記憶とも言えるのです。神様が作ってくださった直後に、人は神様を離れ去り自分勝手に歩んできました。パウロの言葉を借りていえば「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている(ロマ3:23)」罪の奴隷状態に置かれてきたのです。それでも人類は「自分には、神様を固有名詞で呼ぶ権利を持っているくらい正しい」と勘違いし続けて歩み続けています。その結果が、暴力、戦争、犯罪、マイノリティーに対する差別・迫害、公害、地球温暖化といった事象として、この社会に現れています。

しかしパウロはこう続けます「が、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ロマ3:24)」イエスは、線を引き、壁を築く者とは正反対の方でした。自分は神様を知っていると思い込んでいるような人々の目から見れば、神様から最も遠く見える人々のところに飛び込んで行く方です。その一方で、人としての歩みの中では、神様を「とうちゃん(アバ)」呼ぶほど神様と親しかったのです。長いイスラエルの歴史の中で、神様をとうちゃんと呼ぶ人など誰もいませんでした。また、イエスは、モーセ以降、誰も口にしなかった「わたしはある」という言葉を公に言ってしまった方です。旧約聖書ではあの創世記に一回しか出てこなかった神の名をヨハネによる福音書8章で4回も繰り返し、13章でもう一回、だめ押ししています。しかもそれを自分を指して言っているのです。それによって多くの人がイエスを信じ(33) る一方、ユダヤ人たちは反応してイエスに石を投げつけた (59) と記録されています。

イエスの十字架による贖いとは、

1)神様に作られた者の中で自分は最も相応しくないと自覚する者が
2)神様を恐れることなく「父ちゃん」と呼べる方を通して
3)「わたしはある」という名の神様を
4)今度は「イエス」と読み替えて
5)従ってゆく者にしていただける

すなわち「神の民とされる」ということです。
そしてイエスがそうであったように、私たちは、神様と親しい関係を持っているからこそ、線を引き壁を築くのではなく、自分が隔てを飛び越えていって、隔てを埋め、壁があればそれを崩す者として招かれているのです。

 


メッセージのポイント

ここで非難されている「神様を知らない者」とは、ユダヤ教徒やキリスト教徒ではない人のことではありません。むしろ、知っていると思いながら実は誤解して神様の意思に背いている者のことです。私たちは皆、そのような者としての性質を持っています。しかし、従いたいと願い、日々ベストを尽くす者に対してイエスは私の民と言ってくださるのです。

 

話し合いのために

1) 誰が神様を知っていると言えるのでしょうか?
2) 神の民とはどのような人のことですか?

 

子供たちのために

神様の意思を行おうとする気持ちを持つことを励ましてください。しかし、それがとても難しくて、誰でもたくさん失敗してしまう事であり、イエス様は、いちいち一つ一つの失敗を責める方ではなく、何度失敗しても、諦めずについていこうとする者(神を求める人)を喜んで、ご自分の民と呼び、導いてくださることを伝えて励ましてください。