イエス様は悲しみを喜びに変えられる

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イエス様は悲しみを喜びに変えられる

(マルコ 7:31-37, イザヤ 35:5-10) 池田真理

31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られた。32 人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。34 そして、天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すようになった。36 イエスは人々に、このことを誰にも話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 この箇所は他の福音書にはなく、マルコ福音書にだけある箇所です。一見、ただイエス様が耳と口に障害のある人を癒したというエピソードですが、細かい言葉遣いを見ていくと、この箇所に込められたマルコの思いが伝わってきます。それは日本語や英語では分からない、元のギリシャ語で読むと分かる違いです。私も今回、参考書を読んで初めて知りました。それは二つあります。

 


A. マルコが伝えたかったこと

1. 異邦人にもたらされる救い

 まず一つ目は、「デカポリス地方」についてです。日本語の多くの訳では、ここでは「デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に行った」と訳されていて、デカポリス地方は通り抜けただけで、今はもうガリラヤ湖にいることになります。でも英語の訳では、「ガリラヤ湖に降り、デカポリス地方に入った (“down to the Sea of Galilee and into the region of the Decapolis”) 」と訳されていて、今はデカポリス地方にいることになっています。一体どっちにいるの?と言いたくなりますが、これは、原語のギリシャ語がとても回りくどい言い方をしているからです。原語では「デカポリス地方の中心にあるガリラヤ湖に行った」と書かれています。でも、それは地理的におかしいし、分かりにくいので、翻訳する時に違いが出てきてしまいました。マルコがここで言いたかったのは、イエス様は前回のティルスからさらに北のシドンを通り、そこから時計回りに大きく迂回して南下してからガリラヤ湖周辺に戻ってきた、ということです。それは全て、異邦人の住む地域でした。マルコは、イエス様が異邦人の地域を旅して来て、今このガリラヤ湖周辺の異邦人の地域に戻って来たのだということを強調したかったのです。前回読んだように、イエス様は異邦人よりもユダヤ人を優先して宣教していましたが、今日の箇所と次回の箇所までは異邦人の間での働きが記録されています。マルコは、イエス様が確かに異邦人を差別することなく働かれたのだということを伝えたかったのです。
 それでは、マルコの伝えたかったこと、二つ目です。

2. 旧約聖書の預言の成就 – イエス様によって開かれる新しい道 (イザヤ 35:5-10)

 二つ目に注目したいのは、32節の「口の利けない人」という言葉です。原語のギリシャ語では「口が利けない」ことを表す形容詞が一つ使われているのですが、その形容詞は非常に珍しい形容詞で、旧約・新約聖書全てを通して、こことあと一箇所にしか使われていないそうです。その箇所というのが、イザヤ書35章6節です。これは偶然ではなく、マルコがイエス様とイザヤ書の預言をつなげて考えていたからです。イザヤ35:5-6を読んでみましょう。

5 その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。6 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。

マルコは、イエス様によってこのイザヤ書の預言は実現したのだと伝えたかったのです。イザヤ書では、さらにイエス様が実現する救いについて教えています。もう一度5節から、今度は10節までを読みます。

5 その時、見えない人の目は開けられ/聞こえない人の耳は開かれる。6 その時、歩けない人は鹿のように跳びはね/口の利けない人の舌は歓声を上げる。荒れ野に水が/砂漠にも流れが湧き出る。7 熱した砂地は池となり/干上がった土地は水の湧く所となる。ジャッカルが伏していた所は/葦やパピルスが茂る所となる。8 そこには大路が敷かれ/その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者がそこを通ることはない。それは、その道を行く者たちのものであり/愚かな者が迷い込むことはない。9 そこに獅子はおらず/飢えた獣は上って来ず/これを見かけることもない。贖われた者たちだけがそこを歩む。10 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る

 

マルコは、今日の箇所を記録するにあたって、このイザヤの預言全体を考えていたはずです。このイザヤの預言は、救い主によって荒れ野に水が湧き出て、新しい道が開かれると言っています。そして、その道は安全で、その道を歩む者を喜びに導くと言っています。イエス様はその道を開いてくださいました。私たちの心を喜びに導く道です。それは、良い目と耳と口、足を持つことと言い換えられます。大切なことを見分ける目。必要なことを聞き分ける耳。喜び歌うことのできる口。立ち上がる力のある足。私たちはそんなふうには到底なれないと思っても、イエス様が可能にしてくれます。荒れ野に水を湧き出させるように、私たちの心の渇きに応えてくれます。それは具体的にどういうことなのか、教えてくれるのが今日の箇所です。
 今日の箇所は象徴的です。ここで耳と口の不自由な人にイエス様がしている行動を一つ一つ見ていくと、私たちがどうすれば良い耳と口を手に入れて、苦しみから解放されることができるのかが分かります。それは三つの段階に分けられます。まず、イエス様と一対一で会うこと。二番目に、イエス様に触れていただくこと。三番目に、イエス様の苦しみを知ること、です。そうすれば、どんな状況においても、喜びに続く道が開かれます。一つずつ確認していきましょう。


B. 喜びへの道

1. イエス様と一対一で会う

 33節に「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し(た)」とあります。イエス様は、誰に対しても必ず一対一で向き合う方です。群衆の中に紛れ込んでイエス様の服に後ろから触れて癒された女性にも、イエス様は名乗り出ることを求めました。イエス様は、私たちの問題や痛みをただ次から次へと機械的に解決するようなことはしません。それぞれの人生、生活に関わり、一人ひとりと関係を持つことを望まれます。
 私たちはみんな、先にイエス様を信じるようになった誰かを通してイエス様のことを知りました。でも、本当にイエス様のことを知るためには、他の誰かの意見や勧めによるのではなく、自分一人で確かめることが必要です。聖書を読んだり、教会で話を聞いたり、祈ってみたり、ひとりでやってみることです。それは、もうイエス様を信じている人たちも同じです。イエス様のことをもっとよく知るためには、他の人に意見を求めるだけでなく、最終的には自分ひとりでイエス様に出会うこと、出会い直すことが必要なのです。なぜイエス様は自分にこんな苦しみを与えるのか、本当に自分の悩みを知ってくださっているのか、励まし合うことも必要ですが、ひとりで考え祈ることを大切にしてください。

 

2. イエス様に触れられる

 次にイエス様がしてくださるのは、私たちの最も痛んでいる部分に触れることです。33節の後半にこうあります。「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」他の箇所ではイエス様は言葉だけで癒すことも多いのに、なぜこの人にはこのようなちょっと奇妙な動作をされたのか、理由は分かりません。でも、この動作を通して、イエス様はこの人の体で最も癒しを必要としている部分に直接触れました。それは、私たちにしてくださることでもあります。イエス様はもう目に見えないので、この人の時のように直接手で触れてくださるわけではありませんが、他の人には見えなくても、それぞれには分かるように触れてくださいます。それは、実際の問題の解決というよりも、自分が最も苦しんでいることについて、イエス様は知っておられるのだと確信を持てることです。私たちの痛み、苦しみに、イエス様は触れ、関わり、共におられる方です。そう確信できるのは、私たち自身の力によるのではなく、イエス様によります。

 

3. イエス様の苦しみを知る

 三番目に必要なことについては、34節にヒントがあります。「(イエスは)天を仰いて呻(いた)」とあります。前の新共同訳聖書や英語の聖書では「天を仰いで深く息をついた」となっていて、ここは今回の新しい訳で修正された部分です。どちらにしても、これはイエス様の側の感情の動きを表しています。イエス様はここで淡々とこの人を癒したのではなく、この人を苦しめてきたものからこの人を解放するために力を注ぎ出しました。35節にある「舌のもつれが解け(た) his tongue was loosened」という言葉は、直訳すると「舌の鎖が解かれた、壊された」となります。イエス様が言われた「開け」という言葉も合わせて考えると、この人の口と耳は何かによって鎖で縛られ、閉ざされていたということです。イエス様は、この人をその状態から解放し、口と耳を開かせました。そのために、イエス様は天を仰いで呻き、その人を縛っていたものと戦いました。
 私たちはイエス様の呻きを知らなければいけません。イエス様の戦い、イエス様の苦しみを知るとも言えます。イエス様は私たち一人ひとりに出会い、それぞれの痛みに触れるために、ご自分が苦しみを担いました。十字架で私たちの代わりに戦い、苦しまれました。だから、私たちはイエス様は私たちの苦しみの中で共におられる方だと知ることができます。イエス様を知る上で、イエス様が私たちのために苦しまれたことを知ることが、一番大切なことです。

 

4. 道が開かれる

 最後に、今日の箇所全体とイザヤ書を振り返って終わりにしたいと思います。私たちの中には、今まさに病気や障害で苦しんでいる人がいます。その方達にとって、今日の箇所のようにイエス様が実際に自分に触れて、癒しの奇跡を行なって健康にしてくれたらいいのにと思うことは、とても自然で切実な願いだと思います。その願いをあきらめる必要はありません。イエス様は目に見えなくても、不思議な方法で働いて奇跡を起こしてくださるかもしれません。でも、そうでない場合でも、人生を喜んで歩むことをあきらめないでください。どんな状況でも、希望も喜びも自分には見えなくても、イエス様には私たちの目を開き、耳を開かせることができます。私たちと一対一で向き合いたいと願っておられ、私たちの苦しみに触れたいと願っておられます。イエス様は私たちと共に苦しんでくださる方です。そこに道があります。喜べない状況でも神様をたたえ、希望を持って歩むことのできる道です。

10 主に贖い出された者たちが帰って来る。歓声を上げながらシオンに入る。その頭上にとこしえの喜びを戴きつつ。喜びと楽しみが彼らに追いつき/悲しみと呻きは逃げ去る。

 

 


メッセージのポイント

救い主が来られて、私たちに永遠の喜びをくださるという旧約聖書の預言は、イエス様において実現しました。イエス様は、私たち一人ひとりの人生と生活の中に入ってこられ、痛みに触れ、癒してくださる方です。私たちの病気や障害、悲しみが全てなくなるわけではありません。でも、砂漠のような心にもイエス様は水を湧き出させてくださいます。それは、イエス様によって、大切なことを聞き分ける耳を与えられ、神様をたたえる口を与えられることによります。

話し合いのために

1) イエス様に私たちの心に触れていただくために、どうすればいいですか? 
2) 悲しみを喜びに変えていただくために、どうすればいいですか?

子供たちのために

この場面を子供達と一緒にやってみてください。イエス様はこの人を一人だけ連れ出して、他の人からは離れたところで、このちょっと奇妙な動作によってこの人を癒しました。他の場面ではイエス様は言葉だけで悪霊を追い出したり病気を癒したりしているのに、なぜここや他のいくつかの場面では奇妙な動作をしているのか、私たちには分かりません。でも、私たちはこのイエス様の行動を通して、イエス様が私たちの心にも同じように触れてくださる方だということを知ることができます。イエス様は、私たちの心の耳、心の口に触れて、大切なことを聞けるように、必要なことを話せるように、してくださいます。。