「インマヌエル」神様は私たちと共に

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「インマヌエル」神様は私たちと共に

(讃美歌「久しく待ちにし」より)   
待降節第一日曜日 (イザヤ 7:1-17, マタイ 1:18-25) 

池田真理

 

 今年もクリスマスの時期になりました。待降節といって、イエス様の誕生を待つ1ヶ月の始まりです。でも、毎年クリスマスになると考えさせられるのですが、イエス様はすでに来られたのであり、私たちはもう待っている必要はないとも言えます。それでも私たちが「来てください、あなたを待っています、私たちの心に入って来てください」と歌い続けるのは、すでに来られたイエス様を、私たちが何度も自分の心から追い出して、見失ってしまうからです。
 今日は、旧約聖書のイザヤ書から、一人の情けない王様のお話をして始めたいと思います。アハズという王様です。アハズは実在した王様で、自分が神様を信頼できていないことを認められなかった器の小さい王様です。でも私たちは誰もアハズを見下すことはできません。アハズのように、神様を自分の中からしめ出して、見失ってしまうことは誰もが陥る間違いです。それでは少しずつ読んでいきます。まず、イザヤ7:1-2です。

 

A. 昔も今も変わらない人間の現実

 

1. 予想外の恐怖に動揺する

1 ウジヤの子ヨタムの子アハズがユダの王であった時代に、アラムの王レツィンと、イスラエルの王であるレマルヤの子ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。2 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせがダビデの家に伝えられると、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。

 名前がたくさん出てきてややこしいですが、ここに出てくるのは3つの国です。まずアハズが王であるユダ王国、他にアラム王国とイスラエル王国です。イスラエルはエフライムやサマリアとも呼ばれました。アラム王国とイスラエル王国は、ユダ王国を攻めるために同盟を結びました。その知らせがユダ王国に届き、アハズ王の心も人々の心も、「森の木々が風に揺れ動くように動揺した 」とあります。詩的な表現ですが、彼らの動揺をよく表していると思います。隣国が手を組んで自分たちの国に攻め入ろうとしていると知ったら、誰でも恐怖を感じて動揺するのは当然です。
 今年一年を振り返って、皆さんも彼らのように動揺したことはあったでしょうか?自分の力ではどうしようもないと思われる危機を前に、恐れ慌てる経験が、多かれ少なかれ誰にでもあったと思います。今もその只中にいて、心が揺れ動いているという方もいると思います。人間関係でも病気でも、大切な人を失うことも、私たちは予想外のことに動揺し、時には絶望してしまいます。イエス様という決して揺れ動かない土台につながっているはずなのに、現実の自分は強風に吹かれて今にも振り落とされそうなくらいに揺れているということもあります。
 さらに難しいのは、私たちは揺れ動く自分を落ち着かせるために、頼りにならないものでごまかしてしまうことの方が多いということです。それが昔も今も変わらない人間の現実です。続きの3-12節を読みます。

 

2.目に見えない神様よりも目に見える人間を信頼する

イスラエルの歴史は絶えることのない神様の憐みと人の背きの繰り返しであることがこの後の部分から明らかにわかります。17-22節を読んでみましょう。

3 そこで、主はイザヤに言われた。「あなたは、息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、洗い場に至る大通り沿いにある、上貯水池の水路の端でアハズに会い、4 彼に言いなさい。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。アラムのレツィンとレマルヤの子が激しく怒っても、この二つの燃えさし、くすぶる切り株のために心を弱くしてはならない。5 確かにアラムは、エフライムとレマルヤの子と共に、あなたに対して悪事をたくらみ、6 『ユダに攻め上って打ち破り、侵略して我々のものとし、タベアルの子を王として立てよう』と言っている。7 しかし、主なる神はこう言われる。そのようなことは起こらず、実現もしない。8 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン-六十五年たてば/エフライムは打ち砕かれ/民ではなくなる- 9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。あなたがたが信じなければ、しっかりと立つことはできない。」10 主は更にアハズに語られた。11 「あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるい天へと高く求めよ。」12 しかしアハズは、「私は求めません。主を試すようなことはしません」と言った。

 神様はイザヤを通してアハズに語りかけました。アラムとイスラエルが攻めて来てもあなたの国は滅びないから、ただ神様に信頼しなさいと言われています。11節では神様にしるしを求めなさいとも言われています。地獄にも天にも届く、揺るがないしるしです。その神様の呼びかけに対するアハズの返答は、「私は求めません。主を試すようなことはしません 」でした。これは一見信仰深いような言葉ですが、そうではありません。アハズは、神様に信頼せず、期待していませんでした。そして、目に見えない神様に期待するよりも、目に見える人間に助けてもらう方法を考えていました。ここには書かれていませんが、アハズは強国アッシリアに助けを求めました。列王記下の16章に書いてあります。それは、自国の独立を手離し、アッシリアに従属することを意味しますが、アハズはそれが最善の策だと考えました。隣国に従うのかアッシリアに従うのか、どちらがまだましかという消極的な選択ですが、アハズはそれしかないと思っていました。自分の見えている範囲でしか状況を見ようとせず、目に見えない神様がしてくださることがあるとは思えなかったからです。そして、目に見えない神様に期待するよりも、目に見える具体的な人間に助けてもらう方が、ずっと確実だと思いました。その結果、最初の危機は乗り越えられたように見えても、結局は自分の王国に滅びをもたらすことになりました。
 私たちも、神様に助けを求めず、他の誰かや何かで自分の苦しみを軽くしようとしてしまうことがあります。それによって目の前の苦しみは和らぐかもしれませんが、根本的な解決にはなりません。誰かが一度は自分を助けてくれたとしても、その人も人間にすぎず、間違いを犯します。苦しい気持ちをその場限りの楽しい雰囲気でごまかそうとしても、終わったときにはそれまで以上に苦しく感じることもあります。神様は私たちが助け合って生きるように造られましたが、私たちは誰も誰にとっての神様の代わりにはなれません。神様は私たち一人ひとりと信頼関係を築くことを望まれます。そして、アハズに求めたように私たちにも、地獄の底にも天の高みにも届く神様のしるしを求めなさいと言われます。良い時にも悪い時にも決して動かない神様のしるしです。それを見たら神様を信じるということではなく、しるしを求めること自体が神様に助けを求めることです。それは、神様を信頼できずに揺れ動く自分に直面することでもあります。そして、自分の知恵や力で切り抜けようとするのではなく、私を助けてくださいと求めることです。では、決して揺るがない神様のしるしとは何か、続きで語られています。13-14節です。

 


B. 神様からしるしが与えられるという預言

 

1. しるしはひとりの男の子

13 イザヤは言った。「聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人間を煩わすだけでは足りず、私の神をも煩わすのか。14 それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。 

 神様が与えられるしるしとは、ひとりの男の子でした。一人の若い女性から生まれる一人の男の子です。インマヌエルとは、ヘブライ語で「神様は私たちと共におられる」という意味です。
 この預言を聞いたアハズは、どう反応したのでしょうか?何も反応しませんでした。この預言は、アハズにとってなんの説得力もなかったのです。考えてみれば、隣国が手を組んで攻めてくるという差し迫った危機的状況の中で、これから生まれてくるひとりの男の子がなんの役に立つと思えるでしょうか?たとえその子が人々を救う強力なリーダーになるとしても、その子の成長を待つまでに王国は滅びてしまうかもしれません。
 このアハズの反応は、私たちの反応でもあります。2000年前に生まれたイエスという一人の人が、自分の人生とどう関わりがあるのか、具体的に自分の問題をどう解決してくれるというのか、最初は説得力を感じられません。
 でも、そのイエスというひとりの人、マリアから生まれたひとりの男の子が、ただ一つの神様が私たちに与えられたしるしです。良い時も悪い時も決して動かない、神様は私たちと共におられるというしるしです。そのことをイエス様誕生の物語からお話ししていきたいのですが、その前に、預言者イザヤの限界に触れておきたいと思います。残りの15-17節を読みます。

 

2. 「神様が私たちと共におられる(インマヌエル)」の「私たち」とは?

15 悪を退け善を選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べる。16 その子が悪を退け善を選ぶことを知る前に、あなたが恐れている二人の王の領土は必ず捨てられる。17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家に、エフライムがユダから分かれた日以来、臨んだことのないような日々をもたらす。それはアッシリアの王だ。」 

 ここでは、アハズが神様を信頼しなかったので、やがてユダ王国はアッシリアに滅ぼされると言われています。つまり、神様は、神様を信頼する人のことは助けるけれども、信頼しないならば滅ぼすということです。
 このことを「インマヌエル=神様は私たちと共におられる」ということに当てはめると、神様は神様を信頼する者と共にいるのであって、信頼しない者とは共にいないということになります。預言者イザヤは、それが神様の公平な裁きだと語りました。
 でも、それはイザヤの限界であり誤りでした。イエス様が証明した「インマヌエル=神様は私たちと共におられる」ということの真実は、神様が神様のことを信頼できない者とも共におられるということです。それでは新約聖書マタイによる福音書1:18-25を読みます。

 


C. 人となられた神イエス

(マタイ1:18-25)18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎え入れなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。24 ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。25しかし、男の子が生まれるまで彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 23節にイザヤの言葉が引用されていて、イエス様がイザヤが預言した神様のしるしとなる男の子であると言われています。マリアというひとりの人から生まれるけれども、人間の夫婦の間に生まれるのではなく、神様の霊によって生まれる男の子です。イエス様は、ひとりの人間であると同時に、神様ご自身でもありました。ひとりの人間が神様になったのではなく、神様が人間となってこの世界に来られたということです。そして、どんな預言者も予想もしなかった方法で人間を救おうとされました。神様を信頼できない者たちを滅ぼすのではなく、その者たちと共にいるために、自らを滅ぼし、犠牲になるという方法です。イエス様は、私たちの弱さと罪を背負って許すために、十字架で死なれるために生まれてこられました。それによって、「インマヌエル=神様は私たちと共におられる」ということを証明されました。その「私たち」とはすべての人を指します。神様を信頼できない「私たち」すべてです。アハズも含みます。

 最後に、イザヤを通して神様が語られた言葉をもう一度聞きましょう。

気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。…心を弱くしてはならない。…あなたの神である主にしるしを求めよ。陰府の深みへと、あるい天へと高く求めよ。

希望に満ちている時も、絶望のどん底にいる時も、そこで私たちと共におられるイエス様を知りましょう。私たちは揺れ動いていても、どんな時も決して揺るがない十字架のしるしを信じましょう。

 


メッセージのポイント

自分の力ではどうしようもない危機に直面すると、私たちは恐れ、動揺します。そして、目に見えない神様を信頼するよりも、手っ取り早く具体的に助けてくれそうな、目に見える人間に頼りたくなります。それによって目の前の危機は回避できるかもしれませんが、それは本当の解決ではありません。本当の解決は「インマヌエル(神様は私たちと共におられる)」の真実にあります。イエス様は「私たちと共にいる」ために、人となってこの世界にこられ、神様を信頼できない私たちのために死なれました。

話し合いのために
  1. 「神様は私たちと共におられる」の「私たち」の意味は、イザヤの時代とイエス様が来てからでどう変わりましたか?
  2. 今年を振り返って、あなたが動揺した時、あなたはどう対応しました(しています)か?
子供たちのために

イザヤ7章のアハズ王の間違いを話してみてください。アハズは隣国(元々は同じ民族)が同盟を結んで自分の国に攻めてくることを恐れて、強国アッシリアに助けを求め、神様に助けを求めませんでした。このアハズのことを批判するのは簡単ですが、私たちはみんなアハズと同じような間違いをします。「これからどうなってしまうんだろう」と怖くなるとき、私たちは早くそこから抜け出したいので、目に見えない神様を信頼することよりも、具体的に助けてくれる人を頼りたくなってしまいます。そんな私たちに神様が与えてくださったしるしがイエス様です。イエス様がアハズの時代にいたら、アハズのことも憐まれたでしょう。私たちも、先の見えない不安の中で「私たちと共におられる」イエス様に信頼しましょう。