神様の家を求めて旅を続けよう

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神様の家を求めて旅を続けよう

(マタイによる福音書 11:28-30、 ヘブライ人への手紙 11:1; 8-10; 13-16) 

池田真理

 

 今日は今年最後の日曜日です。毎年、年の初めと終わりには同じ聖書箇所を取り上げていますが、今年の初めに何をお話ししたのか、私自身覚えていませんでした。でも、読み直してみたら、この一年ずっと考えてきたことそのままでした。「すぐ先は見えない、でも最終目的地は見える」というタイトルでした。この一年も、自分に見えていることは限られていて、できることも限られているので、不安になったりがっかりしたりの連続でしたが、同時に、今は見えていない神様の計画を信じて期待しよう!と思って歩んできました。そして、思いがけないところで色々な形で神様の励ましを受け取って、これでいいのだと思えました。皆さんはどんな一年だったでしょうか?今日は、もう一度私たちの目指すべきところを一緒に確認したいと思います。まずマタイによる福音書11:28-30を読みます。

 

A. 私たちの帰るべき場所 (マタイ 11:28-30)

28 すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。29 私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。30 私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。

 私たちの歩みの原点はこのイエス様の言葉にあります。「私のもとに来なさい」というイエス様の呼びかけに、私たちはこの一年間でどれほど耳を傾けたでしょうか?苦しくて疲れているのに、このイエス様の呼びかけを無視して、自分の力で立ち上がろうとしたり、他の誰かに頼ろうとしたり、何かでごまかそうとしたり、しなかったでしょうか?私は何度もしました。でも、私たちの帰るべき場所はイエス様の中にしかなく、それ以外のところに同じものを求めるなら、さらに問題を大きくし、混乱を深め、虚しくなるだけです。

 なぜそう言えるのかというと、私たちはイエス様のもとに行って、イエス様の軛、重荷を背負わせていただかなければ、自分の重荷を下ろせないからです。イエス様の重荷とは十字架です。イエス様が十字架で死なれたのは、私の間違いを赦し、私を愛してくださっているからだと知って初めて、私たちは自分の重荷を下ろしていいのだと思えます。自分の背負っていた重荷が背負う必要のないものだったと気が付くこともあります。十字架の重さは、イエス様の愛の重さです。その重さを知って初めて、私たちは必要のない重荷に足を引きずられる必要がなくなります。他人から受けた傷も、自分自身の問題も、たとえ一生修復できないとしても、神様は私を最初から知っておられ、愛し、共に苦しんできてくださったのだと分かります。そして、私たちは自分の力ではどうしようもない問題に支配されて、無気力になることはなくなります。決して満足を与えてくれない人やものに満足を求めて虚しくなることもありません。

 この一年の終わりに、もう一度イエス様の呼びかけを聞きましょう。そして、十字架の重みを背負って、必要のない重荷を下ろしてください。

 それでは、今度は私たちの向かうべき方向はどちらなのか、どうやって目指すのか、ヘブライ人への手紙から確認していきたいと思います。ヘブライ人への手紙11:1です。

 


B. 旅を続けよう (ヘブライ人への手紙11章)

1. 見えないものを信じて期待して (1)

1 信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。

 信仰とは、見えない神様を信じて、今はまだ見えない神様の計画に期待することです。自分の目に見えている状況が悪くても、または先が全く見えない時でも、神様は良い方で、必ずこのことも良いことに変えてくださると信頼して歩むことが、私たちの信仰の旅です。それは、自分の願いが叶うことをひたすら求めるのとは違い、どんなに切実な願いでも、それが神様の思いと違うなら叶わなくて良いと手離すことも意味します。それは、絶望してあきらめるのとは違い、私たちには計り知れない神様の働きに期待して、希望を持ち続けることです。この信仰の旅は、行き先を知らずに出発する旅とも言えます。8節を読みます。

 

2. 神様は行き先を知らせずに私たちを旅に呼び出す (8)

8 信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。

 神様はアブラハムに豊かな土地を与えたいと願って、アブラハムに彼の慣れ親しんだ故郷を離れるように言いました。アブラハムはその豊かな土地がどこにあるのか、どれくらい旅をすれば着くのか、知りませんでしたが、神様を信頼して故郷を後にしました。
 私たちも、自分には出口の見えない、行き先の分からない道を歩かなければいけない時があります。居心地の良い安全な場所から、自分は離れたいとは思わなかったのに、そこを失ってしまう時があります。そんな時、神様は私たちを苦しめようとしているのではなく、豊かな土地に導こうとしています。いつになったら辿り着けるのか、旅の途中にはなかなか分からず、長く感じるかもしれません。でも、旅に呼び出したのは神様であり、神様が目的地を見失うことはなく、必ず私たちをそこまで連れて行ってくれます。私たちは、ただ神様が導いてくださる方に向かって、一歩一歩を踏み出すだけです。どこに連れて行ってくださるのか、具体的にどんなふうに問題を解決してくださるのか、進むに連れて見えてきます。私たちを旅に呼びだした神様を信頼して歩み続けましょう。
 ただ、たとえ一つの問題を乗り越えたとしても、私たちの旅が終わるわけではありません。私たちは生きている限り、この目に見える世界の中では仮住まいをしていると言えます。9-10節を読みます。

 

3. 仮住まいを続ける (9-10)

9 信仰によって、アブラハムは、他国人として約束の地に寄留し、同じ約束を共に受け継ぐイサク、ヤコブと共に幕屋に住みました。10 アブラハムは、堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し、建設されたのは、神です。

 アブラハムは神様が約束された豊かな土地に行くことができました。でも、そこにはすでに先に住んでいる人々がいて、アブラハムは外国からやってきた移民であり、よそ者にすぎませんでした。アブラハムはそこで確かに豊かな暮らしを手に入れましたが、最後までよそ者としての居心地の悪さを持っていました。そして、その違和感は、単に移民だからというだけでなく、アブラハムの信仰による違和感でもありました。この世界の中にいながら、見えない神様を信じて、神様の意思が行われることを求め、神様の近くにいたいと願う信仰です。他民族の中に置かれて、アブラハムは自分の信仰が多くの人たちとは違うことを意識せずにはいられませんでした。争いや不正義が当たり前で、神様の意思が全く行われていないような厳しい現実の中で、神様を信じて求め続けることは、簡単なことではありません。でも、アブラハムには確信がありました。自分を旅に出させ、その土地に置かれたのは神様であるという確信です。だから、どこにいても、どんな状況でも、神様を求め続けました。
 私たちも、神様の愛を知れば知るほど、神様の悲しまれることがこの世界でいかに多いかに気が付かされます。神様はたくさんの恵みをくださっているのに、私たちはそれに気が付かず、時には拒もうとする愚かさと罪を常に持っています。そういう私たちが作る社会は当然間違いが多く、私たちは互いの罪によって傷つけあっています。でも、ここに私たちを置いたのは神様です。私たちは、アブラハムと同じように、神様に導かれて、今それぞれの場所に置かれています。私たち自身も私たちが置かれている社会も、神様の愛という理想とはほど遠い現実ですが、私たちはこのままの自分で今ここで、神様を求め続けます。この世界の中で仮住まいを続け、本当の家を求め続けるということです。
 本当の家とは、神様が建ててくださる家で、神様のおられる家です。この家は、イエス様によってすでに私たちの近くにあります。続きの13-16節を読みます。

 


C. 今ここにある神様の家 (13-16)

13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。14 彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。15 もし出て来た故郷のことを思っていたのなら、帰る機会はあったでしょう。16 ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。事実、神は、彼らのために都を用意しておられたのです。

 アブラハムをはじめ、旧約聖書の人々には手に入れることのできなかった約束のものとは、天の故郷、神様の都です。彼らはやがてそれがこの世界に実現するのだという希望を持って人生を終えました。私たちも彼らと同じように神様の約束を信じて歩んでいますが、私たちは彼らよりずっと恵まれた時代に生まれました。神様の約束はすでにイエス様によって実現したからです。

 私たちの帰るべき場所、本当に安心できる家は、イエス様によってもうこの世界に来ています。私たちがイエス様に愛されていることを信じて、赦されていることを信じて、希望を持って歩む時、そこに神様の国は来ています。そして、私たちが互いに愛し合い、許し合い、たとえ現実の関係性がすぐには変わらなくても、神様に委ねてあきらめない時、そこにも神様の国は来ています。今日最初に聞いた、「私の元に来なさい」というイエス様の呼びかけが、神様の国の入り口です。それは、それぞれの置かれた場所で、今ここにあります。

 今日のメッセージを準備する中で、今年最初にお話しした時と同じタイトルのままにすることも考えました。「すぐ先は見えない、でも最終目的地は見える」というタイトルです。でも、神様の国は私たちの人生の終わりに行き着く最終目的地ではなく、今ここに、私たちの中に、私たちの間にあるので、タイトルも変えることにしました。私たちは確かにそこをはるか遠くに仰ぎ見て目指していますが、今ここでそこにいることができます。私たちの旅の始まりはイエス様の呼びかけで、旅の終わりもイエス様のおられるところであり、でも旅の途中もイエス様のもとで休む必要があります。そうやって旅を続ける私たちのところに、神様の国はあります。

 ルカによる福音書にこうあります。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたではこない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(ルカ17:20-21)

また、イエス様はこうも言われています。今年最初の方で読んだマルコによる福音書の一節です。

また、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:30-32)

 


メッセージのポイント

私たちが休むために帰るべき場所はイエス様の腕の中です。同時に、私たちが目指している場所はイエス様の愛が実現するところです。目に見えるこの世界の中で、どうやってイエス様の愛を実現するのか、どうやって他の人と愛し合うことができるのか、それぞれにできることは限られており、実現不可能と思われることもあります。それでも、神様は私たちをその目的のためにこの世界に置かれています。神様の呼びかけを信頼して、できないことは神様に委ねて、自分の周りから神様の愛が実現するように、それぞれの歩みを続けましょう。

話し合いのために
  1. 神様が行き先を知らせずに私たちを旅に呼び出すとはどういうことですか?
  2. 今年一年を振り返って、神様の家(国)を感じた経験を教えてください。
子供たちのために

みんなにとって今年一年で、良かったこと、悪かったことは何でしょうか?イエス様はそれぞれのことについて何と言われると思いますか?