それでもまだ、世の終わりではない

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それでもまだ、世の終わりではない

(マルコ Mark 13:1-23)  

池田真理

 マルコによる福音書も13章まできました。13章は、イエス様が逮捕される前の最後のメッセージと言われています。世界の終わり、終末の時に関することが教えられています。この13章は難しい章です。イエス様の時代に実際に迫っていたエルサレムの危機と、やがて来る終末のことが、混じり合って教えられているからです。全体を通して読まないと誤解してしまいます。でも、内容は前半と後半に分けることができます。前半は、私たちが「もう世界は終わりだ」と思うような絶望的な状況が起こっても、それはまだ世界の終わりではないということが教えられています。後半は、世界の終わりは必ずやってきて、その時にはイエス様が栄光と共にこの世界に戻って来られ、新しい世界が始まるということが教えられています。なので、長いのですが、今日は前半の1-23節全体を読んでいくことにしました。それではまず1-2節です。

 

A. 崩れなければいけない神殿 (1-2)

 

1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう。」2 イエスは言われた。「この大きな建物を見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」

 

 ここで言われている神殿は、紀元前19年からヘロデ大王 Herod the Great が建設を始めた神殿です。もう50年建設中でした。この時点ではほぼ出来上がっていて、その見事さは当時の様々な歴史文献にも記録されています。神殿の柱に使われていた石は、一辺が4mにもなる巨大な石もあったそうです。おそらく、私たちが今見ても、荘厳で圧倒されるような建造物だったでしょう。

 でもイエス様は、この神殿は崩れ落ちると断言しました。イエス様からすれば、神殿は人間の傲慢の象徴であり、本質から離れてしまった信仰の象徴でした。神様は、人間が造った建造物に住む方ではなく、贅沢な装飾も重々しい建築も必要としません。神様が人間に求めるのはただ、神様を求め、信頼し、愛する心です。それを忘れて、外見ばかり立派に仕立て上げた神殿は、人々の見せかけだけの偽善的な信仰そのものでした。だから、それは崩されなければいけませんでした。

 そして、その通り、この時から約40年後の紀元70年に、神殿はローマ軍によって破壊されました。紀元前19年から80年以上をかけて紀元64年に完成した神殿は、そのわずか6年後に崩壊したのです。

 私たちは、自分たちにも「崩されなければいけない神殿」がないか、時々考えてみるべきだと思います。個人としても、教会としても、長年かけて築き上げた立派なもの、組織であれ、功績であれ、それは私たちの傲慢ではないのか、本当に神様を喜ばせるものなのか、どうでしょうか。それが崩れるのは、恐ろしく、絶望的なことに思われるかもしれません。でも、もしかしたら、それは本来の神様の望まれるあり方に戻るために、必要な崩壊かもしれません。

 それでは次の部分に入ります。3-8節です。

 


B. 「まだ世の終わりではない」

1) 社会不安、戦争、自然災害 (3-8)

 

3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。6 私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。7 戦争のことや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。

 

 神殿が崩壊するというイエス様の言葉を聞いて、弟子たちは不安になったのだと思います。それは、彼らにとって世界の終わりに等しい恐ろしいことに感じたのだと思います。だから、それはいつ起こるのか、どんな徴によって知ることができるのか、尋ねました。そんな彼らに、イエス様は世界の終わりについて語り始めました。と言うよりも、正確には、それはまだ世界の終わりではないことについて話し始めました。
 6節から8節でイエス様が言われている様々なことは、歴史上、世界中で繰り返し起こったきたことです。社会の混乱、戦争、地震や飢饉などの自然災害。イエス様は、「そういうことは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。惑わされないように気をつけなさい」と言われています。戦争や自然災害は、終末の徴ではないのです。今日の箇所は、日本語の聖書でも英語の聖書でも、「終末の徴」という副題が付けられていることが多いのですが、それが誤解を招いていると思います。副題は元々の聖書の本文にはなく、翻訳者が内容を解釈した上で付けているものです。ここで言われていることは、終末の徴のリストアップではなく、終末の徴を求めてはいけないということです。イエス様は、世界の終わりを思わせるような恐ろしい出来事に、惑わされてはいけないと言われているのです。
 そして、むしろ、それは「産みの苦しみの始まりだ」と言われています。それがどういうことなのか、続く9節以下で言われているのですが、その前に、内容が似ている14-23節を読みたいと思います。この14-23節をどう解釈するかが、この13章の難しい点です。

 

2) 当時差し迫っていた具体的な危機 (14-23)

 

14 「荒廃をもたらす憎むべきものが、立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。15 屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。16 畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない。17 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。18 このことが冬に起こらないように、祈りなさい。19 それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。20 主がその期間を縮めてくださらなければ、誰一人救われない。しかし、主はご自分のものとして選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。21 その時、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。22 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。23 だから、気をつけていなさい。一切のことを、前もって言っておく。」

 

 ここでのイエス様の指示は、とても具体的です。山に逃げなさいとか、家の中に入るなとか。ユダヤという地名が出てきますし、ルカによる福音書の同じ箇所では「エルサレム」と、はっきり言われています。これは、当時実際にユダヤ人に差し迫っていた危機を預言していたからです。最初に、神殿は紀元70年にローマ軍によって破壊されたと紹介しましたが、それは紀元66年から始まったユダヤ戦争の終わりに起こったことです。当時、ローマ帝国の支配に対するユダヤ人の不満はどんどん膨らんでいました。多くの偽預言者が出現し、ユダヤ教原理主義者たちと共に反乱を先導しました。彼らは、神様を信じ続ければ、必ず神様がローマを倒してくれると信じていました。勝ち目はないにもかかわらず、エルサレムに籠城し、飢えに苦しみながらも、最後には神様が現れると信じ続けました。やがてローマ軍は砦を崩し、略奪と虐殺の後、神殿にも町中にも火を放ちました。そうして、エルサレムは陥落しました。悲しいことですが、太平洋戦争中の日本によく似ています。イエス様は、そんな悲劇がユダヤ人に起こることを知っていて、そうなる前に逃げなさいと言われたということです。

 でも、この14-23節で言われていることは、エルサレム陥落のことだけに限定はできません。14節は特に、旧約聖書のダニエル書の引用で「荒廃をもたらす憎むべきもの」という言葉が使われており、それが何を意味するのか「読者は悟れ」というミステリアスな言葉まであります。これは確かに、世界の終末を想定した言葉なのだと思います。話が複雑になってしまうのですが、もし興味があれば第二テサロニケ2章を読んでみてください。そこには、サタン(悪魔)の働きによって不法の者 the man of lawlessness と呼ばれる者が現れて、人々を惑わすということが言われています。ここで言われているのも、それと同じことなのかもしれません。また、19節以下の、かつてないほどの、また今後も決してないほどの苦難の時が来るというのも、終末の時のことが言われていると考えられます。

 でも、実際のところ、エルサレム陥落は起こりましたが、世界は終わりませんでした。ということは、イエス様は間違った預言をしたということでしょうか?そうではないと思います。イエス様は、終末に向かう出来事の一つとして、エルサレム陥落を預言したのだと思います。エルサレム陥落の際にユダヤ人が経験した絶望的な状況は、やがて来る世界の終末の時に起こることでもあるということです。具体的には、人々を惑わす者が現れて、自分が神であるかのように振る舞い、人々の心を神様から引き離し、破滅に導くということです。だから、ここでもイエス様は「惑わされないように、気をつけなさい」という警告を繰り返しています。

 終末について、私たちが知ることができるのは、これだけです。苦しみに惑わされないように、偽の神様、偽の預言者、偽のイエス様にだまされないように、気をつけていなければいけないということだけです。終末はいつ来るのか、どういう前兆があるのかを心配して考え続けることには意味がありません。イエス様は、それがいつ来るにしても、イエス様を信頼して希望を保てるように気をつけているようにとしか言われなかったのです。

 それが、「産みの苦しみ」でもあります。9節に戻ります。

 


C. どんな時もイエス様のことを証し続ける (9-13)

 

9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ち叩かれる。また、私のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。10 こうして、まず、福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない。11 連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。12 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子は親に反抗して死なせるだろう。13 また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 ここには、初期の教会が経験した迫害のことが言われています。最初の弟子たちの多くは、ペトロもパウロも、ここで言われている迫害を経験し、殉教しました。今も世界には教会を弾圧する国もありますが、日本で迫害を経験することはもうほとんどありません。でも、私たちも、最初の弟子たちと同じように、誰を前にしても恐れることなく語り続ける役割を与えられています。「その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」とイエス様は言われています。話すというのは、口で言葉を発することだけではありません。行動で示すことは、言葉以上に強力なメッセージになります。私たちは、聖霊様によって言葉と行いを導かれることによって、イエス様のことを世界に伝えるように、求められています。

 それが、まだ世の終わりが来ていない今、やがて必ず来る終わりに向けて、私たちが続けるべき唯一のことです。また、それが、最初の弟子たちから始まり、世代を超えて、世界中で続けられてきたことです。戦争や災害に襲われても希望を失わず、偽の神や偽の預言者が混乱をもたらそうとしても、冷静にイエス様を信頼し続けることです。そうして、絶望的な危機に直面してもイエス様を信頼し続けた人たちによって、私たちにもイエス様のことが伝わりました。

 8節でイエス様は「産みの苦しみの始まり」と言われました。それは、私たちの間に神様の国が生まれる苦しみです。この世界に、私たちを通して、イエス様が生きて働くための苦しみです。信仰のないところに信仰が生まれ、絶望の中に希望が生まれ、愛のないところに愛が生まれるための苦しみとも言えます。やがて来る終末の時が、実はすでにもうここに来ているという葛藤でもあります。私たちは、聖霊様によってこの働きを担い、この世界でイエス様のことを証し続けます。

 今日イエス様が3回繰り返し言われた言葉があります。(5,9,23節)それは、「気をつけなさい、惑わされてはいけない」です。世の終わりはまだ来ていません。私たちを絶望させようとするものに惑わされずに、聖霊様によって導かれて、最後の日までイエス様を信頼してイエス様と共に歩んでいきましょう。

 


メッセージのポイント

この箇所は「終末の徴」という副題が付けられることが多いですが、イエス様は「これらは終末の徴ではない」と言われています。「もう世界の終わりだ」と思うような戦争や災害が起こっても、私たちは希望を失ってはいけません。どんな時でも、ただイエス様を信頼して、イエス様に愛されているように人を愛することが、私たちの継続すべきことです。そのように、いつの時代も、国境を越えて、絶望的危機の中でもイエス様を信頼し続けた人たちによって、神様の国がこの世界に広がり続け、私たちにも届いたのです。

 

話し合いのために
  1. 私たちには「崩れなければいけない神殿」はあるでしょうか?
  2. イエス様の言われる「産みの苦しみ」は、何が生まれるためですか?

 

子供たちのために

イエス様は、戦争や地震や飢饉など、多くの人が「世界は終わりだ」と絶望してしまうような状況でも、「惑わされてはならない、慌ててはならない、そういうことは起こるが、世界は終わっていない」と言われました。(5-8節)目に見えるこの世界では、誰にも予測できない(または予測できても誰も止められない)出来事が起こることがあります。今回のコロナウィルスもそうです。そんな時、大人でも誰でも不安になり、怒りや悲しみが出てくることもあります。「神様なんていない」と思ってしまうこともあるかもしれません。でも、イエス様はそんな時こそ、「私を信頼して、ついてきなさい」と言われます。辛い時にイエス様を信頼するとは、子供たちそれぞれにとって具体的にどういうことを意味するのか、話し合ってみだくさい。