ポストコロナのユアチャーチ

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ポストコロナのユアチャーチ

 

永原アンディ

A. コロナ以前のユアチャーチ

 

1) 恵みが当たり前になっていなかったか? (1コリント1:10, 27-29)

 コリントの信徒への手紙は、ギリシャのアテネから東に80キロほどのコリントに、使徒パウロの働きによって紀元50年頃誕生した教会に向けて書かれました。。この手紙が書かれたのは、それから3、4年後のことです。パウロは1年半位で教会の基礎づくりをすると、人々に教会を任せコリントを離れましたが、コリントの教会はパウロがこの手紙を書かなくてはならないような危機を迎えていました。少し読んでみましょう。コリントの信徒への第一の手紙1:10です。

さて、きょうだいたち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたにお願いします。どうか、皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。

まだ生まれて数年の教会に起こった対立の原因はいろいろありましたが、ここに書かれているように、それらの原因によって教会はバラバラになりかけていました。イエスキリストの価値観によって立てられた教会は、人間的な価値観によって支配されるようになっていたのです。パウロはこう続けています。

1:27-29 ところが、神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。28また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者とするため、無に等しい者を選ばれたのです。29 それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

ただただ、神様の恵みと憐みによって与えられた。貴重な人間関係。それが教会です。それは人間の努力や能力によって得られるものではありません。私たちは皆、砂漠の中のオアシスを発見したように(本当は導かれ招き入れられたのですが)ここにたどり着き、魂の渇きを癒したのです。しかし人間は皆、良くも悪くも、人間は環境に順応します。 ちょうど水も空気のようになければ生命を維持できないのに、あるのが当然と感じてしまうように、イエス・キリストとその体である教会について、あって当然という感覚になっていなかったでしょうか?幸いにも私たちは、コリントの教会のように問題が起こるような事態には至っていませんが、共同体としてのフォーカスが甘くなってきていたのではないかと思うのです。

 

2) 恵みが当たり前になるとフォーカスが甘くなる (マタイ14:25-31)

 私たちがフォーカスすべきこととは、イエスに従うという点なのですが、私たちは神様の恵みが空気のように当たり前に感じられるようになると、私たちは、平気で神様から目を逸らし始めます。そして失敗します。 ペテロは彼のたった数秒間の体験を通して、そのプロセスを教えてくれました。

25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」
29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

イエスへのフォーカスが甘くなるということは、フォーカスが自分たちに移る、イエス中心ではなく私たち中心になるということです。今回の出来事は、世界中に大きな災いをもたらしましたが、自分の神様との関係を問い直すきっかけとはなりました。それは個人に限らず、教会全体に与えられたチャンスともなったのです。宗教改革から約500年、教会の変革が必要だという声はあちこちから上がっていました。私はそう期待していますが、コロナの出来事は教会が大きくリフォームできるきっかけとなるかもしれません。

 


B. コロナの中のユアチャーチ

 

1) 崩れるべき神殿を知った。(マルコ13:1-2)

 

 先週のメッセージを覚えていますか?その中の私たちの心に立てられてしまった「崩れるべき神殿」ということが特に心に残りました。 コロナは大きな災いを起こしていますが、この事を通して、私たちは、本当に失ってはならないものと、なくても大丈夫なものを再確認することができました。 話としては、何度も繰り返してきましたが、実際に集まるところが失われることによって、ユアチャーチは集会でも建物でもなく、それができなくても壊れない人間関係だと知りました。人間関係は努力なしに保つことはできません。おかれている環境の中で、キリストの体として機能する人間関係を保つ事ができるように、与えられているものを最大限に活用しましょう。建物であれ、ZOOM会議室であれ、そこで何かをする事が目的なのではないのです。

 

2) 一人一人の神様との関係に変化が起きた(使徒言行録8:1,11:19-21)

 

   何人かの方が、この時期を通して、イエスに従うとはどういうことなのか?考えさせられたとおっしゃっていました。一人で主の前に過ごす時間が増えたのも、この時期の恵みの一つでした。お互いに大切な家族であることはもちろんですが、私たちは誰かを介して主と繋がっているわけにはいきません。一人一人が主としっかり繋がった上でこそ、互いに対する関係もしっかりしたものになるのです。

(使徒言行録8:1b) その日、エルサレムの教会に対して激しい迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった。 (11:19-21) さて、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外の誰にも御言葉を語っていなかった。ところが、その中にキプロス島やキレネから来た人がいて、アンティオキアへ行き、ギリシヤ語を話す人々にも語りかけ、主イエスの福音を告げ知らせた。主の御手が共にあったので、信じて主に立ち帰る者の数は多かった。

エルサレムでの迫害によって散らされた人々がアンティオキアという都市にまで到達した時、教会は新しいステージを迎えました。それまではユダヤ人だけにイエスを伝えていたのに、それ以外の人々にも伝えるということを始めたのです。
 それを始めたのは、迫害によって慣れた生活の場を追われ未知の場所で生活を始めた人々でした。彼らはエルサレムに戻って元の信仰生活を取り戻したいとクヨクヨしてはいませんでした。その代わりにエルサレムにいては考えられない新しい道に進んでいったのです。 このことは私たちが経験していることによく似ています。 今までのあり方を保てず、色々なことを考えさせられました。そこで、私たちが今までにしてこなかったステージに飛躍するために、まず一人一人がイエスとの関係を見直すときとなったのです。

 


C. ポストコロナのユアチャーチ

 

1) 本質は変わらない(ローマ12:1−2)

1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

7月から私たちは、金曜日のPAWSを普通の礼拝に変えて、週に3回礼拝の時間を持とうとしています。それでも、教会には月に2回くらいしか来られないのです。しかし、これから私たちはどうなっていくのだろうか?毎週来られない教会っていいのだろうか?と思うのは、アンティオキアで全く新しい歩みを始めた人たちの霊的な子孫の考え方ではありません。それは私たちの大切にしてきた礼拝を軽んじることではありません。 礼拝を最優先する私たちであることは、決して変わることはありません。頭であるイエスが導かれる方向に向かって、その手足として、間違わずに進んでゆくには、器官が脳と神経でつながっているようにイエスとつながっていなくてはなりません。そのために礼拝が全ての中心であることは変えられないのです。  もう一つ、自分たちの、神様との関係、互いの関係を良いものにすることだけが私たちの本質的なあり方ではありません。イエスを必要とする人にイエスを紹介することも忘れるわけにはいかないのです。

 

2) 本質を変えないために変えるべきこと(1コリント9:19-23)

しかしそのためには、このままではいられません。本質を見失わないために変えなければならない事があるのです。実は、教会はそのようにして改革し続けられてきました。だから2000年間、イエスに従う者が途絶えることはありませんでした。それは、使徒パウロのこの精神を受け継ぐ事だったのです。

19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

 私たちのあり方がどのようになってゆくのかはまだ試行錯誤が続くでしょう。しかし、今は私たちが新しい時代の教会になるチャンスです。それは、訳の分からないものを目指しての変化ではないのです。どのような状況にあっても、イエスが最初の弟子たちとともに生きた最初のコミュニティーを目指すものであることを覚えていてください。

 


メッセージのポイント

この5か月の間に、私たちのライフスタイルは大きく変わりました。元に戻ることはできません。しかし、イエスの体である教会の本質は、神様ご自身が変わらないのですから変わることはありません。そうであるからこそ、私たちはライフスタイル、特にユアチャーチとしてのライフスタイルを積極的に変えていかなければなりません。本質を変えないために、変わらなければならないのです。

 

話し合いのために
  1. この5か月を通して、自分の中で変わったことは何ですか?
  2. コロナ禍を通してユアチャーチ が変わるべきことと変わってはいけないことは何ですか?

 

子供たちのために

(保護者の皆さんへ) 今年の前半は、今まで過ごしたことのない生活をみんなが送りました。その中でも、よかったことを話し合ってみましょう。教会とは何だったんだろう?子供たちとともに考えてください。自分(親)たちにとって教会とは何なのか?なぜ必要なのか?もうすぐ町田でも礼拝が始まりますが、今まで通りの4階での子供の教会はできそうもありません。また、教会に来られても、教会のお友達と会うことはしばらくできそうもありません。ユアチャーチ はどうしていったら良いのか?子供たちにも考えてもらいましょう。