受難週の黙想 2021


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受難週の黙想 2021

永原アンディ


 今日から受難週といわれる、イエスに従う者にとって一年で一番大切な一週間を過ごします。皆さんにも、この一週間を意義深く過ごしていただきたいと思います。そこで今週と来週はシリーズから離れて、受難週のためのメッセージと復活についてのメッセージをします。今週は、私が受難週のメッセージとして、皆さんにこの週、一緒にしていただきたいことをお話しします。

 それは黙想(meditation)の時を持つということです。黙想とは漢字の意味の通り、黙ってイエスを思い、共に時を過ごすことです。今週だけは、いつもより少し長めに神様とあなただけの時を持ってください。そして主の十字架を皆さんの心に深く刻み付けていただきたいのです。これから誰にでもできるその方法をお教えしたいと思います。

 黙想は祈りとは異なり、言葉を用いない神様とのコミュニュケーションです。すべての感覚を注意深く神様に向けるのです。聖書を読むことや祈りは導入や締めくくりにすぎません。

 時間さえ確保すれば、とてもシンプルなことです。場所はどこでもかまいませんが、ひとりになって、できるだけ静かで集中できる所がいいでしょう。黙想の始めに、まず祈りましょう。「主よ、これからいただくあなたの言葉、魂の糧を、あなたの十字架をおぼえるためにしっかりと心に刻み付けてください。」 そして、聖書の言葉をじっくりとかみしめるように読んでください。そしていよいよ黙想です。10分間くらい、時間に余裕があればもうすこし、目を閉じて、心に浮かべるのは、読んだ聖書からのインスピレーションだけです。神様が沈黙の中で、あなたの心に語りかけてくださるのを待ちましょう。大体考えていた時間になったと思ったら、もう一度、短く祈ります。それは、この時間に神様が教えてくださったことへの応答の祈りです。

 黙想の助けのために、それぞれのテキストを簡単に説明します。


3/28 棕梠の日曜日(マタイ21:1-5)
子ロバに乗ってエルサレムに入られたイエス

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

 5節はゼカリヤ書9:9の引用です。ここで心に留めていただきたいことは、この出来事が預言者を通して言われていたことの成就だったということです。イエスは、権力者や軍人の乗る立派な馬ではなく、ロバの子に乗ってこられました。 それはイエスが今までのリーダーたちとは全く違ったアプローチで人を導く方であることを表しています。支配するリーダーではなく、仕えるリーダーです。羊のために命をかける羊飼いであり、僕の足を洗う主人のようなリーダーです。

 わたしたちも、イエスと同じようにするべきです。なぜなら、主は皆さんにリーダーとなることを求めておられるからです。 一国のリーダーでなくても、例えば親は子供のリーダーです。

 小ろばに乗られたイエスがもう一つ私たちに教えていて下さることは、小ろばのように小さく弱くてもイエスのために働くことができるということです。


3/29 宮潔め(マタイ21:12-13)
神の家を商売の場としてはいけない

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

 教会は神殿ではありません。イエスが来てくださり、聖霊として信じる者の心に住んでいてくださるのですから、私たち自身が神様の神殿(住まい)なのです。そこで私たちが覚えなければならないのは、私たちにとっての宮清めとは一人一人の心を清く保つことだということです。どんなに美しい部屋も掃除やかたづけをしたければ、乱雑になりほこりがつもってしまいます。私たちの心も同じです。

 イエスは神殿で、神様を使って自分の利益を求めることを戒めています。私たちは心の思いが本当に神様のためのものなのか?それとも自分のためなのかを良く吟味するべきです。


3/30 権威についての問答(マタイ21:23-27)
あなたに神様が与えられた権威

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 彼らはまじめに質問しているのではなく、単に言いがかりをつけるために質問しています。それに対してイエスは、彼らと同じように、彼らがどう答えても非難される質問で切り返し、彼らを黙らせてしまいました。イエスの言葉は誰の目から見てもそれが神様からの権威だということははっきりしていました。私たちもまた神様の権威によって宣べ伝えています。しかしこの権威は時として疑われ、軽んじられ、踏みにじられるのです。イエスのように与えられている権威を疑うことなく、どのように扱われようと、怒りや悲しみに支配されることなく、神様からの知恵や、慰めをいただいて歩み続けましょう


3/31 香油の日 (マタイ 26:6-13)
人を自分の価値観で裁いてはいけない

さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

イエスは決して貧しい者にほどこしをすることを軽んじているのではありません。ただどんなによい行いも、神様に自分のベストをささげよう、という意志に勝るものはないということを知りましょう。「よい行い」はしばしば自己満足・偽善の隠れ蓑になります。また、他の人々の考えや行動を非難する道具に使われます。


4/1 洗足の木曜日・最後の晩餐 (ヨハネ 13:1-15)
互いに仕え合う僕として生きてゆきなさい

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(13:3-8)

あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(13:13-15)

 この部分は、神様が望まれる人間関係のあり方を明確に教えています。普通、足を洗うのは僕であり、洗ってもらうのは主人です。イエスは支配者として君臨するために来られたのではなく仕えるために来られました。その頂点が、すべての人の身代わりに十字架の刑を引き受けるということだったのです。主の御名によって罪の赦しの宣言を受けた者は皆、イエスに足を洗ってもらった者だと言えます。そこで私たちは自問しなければなりません。「私もまたイエスと同じように僕(しもべ)として歩んでいるだろうか」と。


4/2 受難の日 (マタイ26:69-75 ルカ23:32-43)
イエス様の十字架を背負おう

ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:69-75)

日曜日に歓喜の声でエルサレムに迎えられたイエスでしたが、最後の時には、共に立つ者は一人もいませんでした。3年の間、彼とともに行動した弟子たちでさえ例外ではありませんでした。私たちの誰にもペテロを責める資格はありません。私たちは彼と同じ弱さを持っているからです。復活されたイエスでさえ彼らを責めて、あなた方は失格だとはおっしゃいませんでした。それどころか、弱い裏切り者の彼らに、宣教を託されたのです。私たちはパウロのように自分の弱さを誇ることが出来ます。それは主を信頼することによって可能なことです。

ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:32-43)

この二人の犯罪人のイエスに対する態度は、人間の自分の罪に対する二つの態度でもあります。自分の罪を顧みず、問題はすべて自分以外にあると信じ、イエスの十字架を間近に見ても救い主と受け入れない人と、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という人。イエスを真ん中に、全く同じような姿で十字架につけられている二人ですが、一人は永遠に神様から引き離された状態に置かれることとなり、もう一人は、このあとすぐイエスと共に神の国に向かい、永遠に主とともにいることとなります。


4/3 暗黒の土曜日 (1ペトロ3:18-20, 4:6)
イエス様は宣教するために陰府(よみ)に下られた

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

この期間、十字架の死からよみがえりの時までイエスは何をされていたのでしょうか?その体は墓の中に横たえられていましたが、主の霊は重要な働きをなさっていたのです。生きている間にイエスを主と受け入れなかった人が肉体の死後どうなるのか?その答えがここにあります。永遠の命を受けるチャンスは、イエスを拒んだままでこの世の生を終えた人々にも用意されていることがわかります。


メッセージのポイント

今日から始まる受難週。イエス様がエルサレムにこられ、十字架の死に至り、葬られた一週間の歩みを、自分も主と共にたどるように深く黙想する時として過ごしましょう。毎日の聖書の言葉と祈りによって、深く主思いを心に刻み、主とともに歩む者としての決意を新たにしましょう

話し合いのために

1) 十字架の出来事以外に受難週に起きた出来事で最も興味深かったのは?それは何故ですか?
2) 十字架を想う時、あなたはどのような気持ちになりますか?

子供たちのために(保護者のために)

子供を持つ方は是非このテキストを読み聞かせ、簡単に説明して、短く共に祈りましょう。できれば、大人は別に静かに黙想するときもお持ちください。