苦難の中でも心を確かに


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苦難の中でも心を確かに

詩編108

永原アンディ


歌。賛歌。ダビデの詩。
神よ、私の心は確かです。私は歌い、ほめたたえよう。私の栄光よ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。私は暁を目覚めさせよう。
主よ、もろもろの民の中であなたに感謝し国々の中であなたをほめ歌おう。
あなたの慈しみは天を超えて大きくあなたのまことは雲にまで及ぶ。

神よ、天の上に高くいませ。あなたの栄光が全地にありますように。
あなたの愛する人々が助け出されるように右の手で救い私に答えてください。
神はその聖所で宣言された。
「私は喜び勇んでシェケムを分配しスコトの谷を測量しよう。
ギルアドは私のもの。マナセも私のもの。エフライムは私の頭の兜。ユダは私の王笏。
モアブは私の足を洗うたらい。エドムには私の履物を投げ ペリシテ中に勝ち鬨の声を響かせよう。」

A. 二つの歌から一つの歌が生まれた理由

その内容が6節までの賛美・感謝と7節以降の助け出してくださいという願いというように、前半と後半ではっきりと違っている詩です。そして詩編によく親しんでいる方なら、どこかで見たことがあったなあと気づいたかもしれません。実は前半は57編、後半は60編ほぼそのままなのです。

つまり108編の詩人は二つの詩を合成した一つの詩としたということです。文学なら盗用ということで問題になるような事案ですが、詩編は礼拝音楽です。旧約の詩人たちにとっては、今のサンプリング、リミックス音楽のように過去の素材を持ってきてその時代にふさわしい歌に作り替えるというのは認められた正しい作法だったのです。しかしなぜ、全く雰囲気の異なる二つの歌が時にかなった礼拝の歌になったのでしょうか?

その理由は、108編が最近読んでいる詩篇と同様に「バビロン捕囚期」の経験を経て作られたものだからです。長い歴史の中で民族の置かれる状況も大きく変わります。大きすぎる絶望を目の前にして、恐れる気持ちと神様に対する信頼が人々の心に共にあるのです。

皆さんも思い当たらないでしょうか?自分の感情の揺れを率直に見る時、自分の信仰は本物なのだろうか?と感じたことがあるのではないでしょうか?それは矛盾することではないのです。それがどのような状況であっても神様の手が働いていないということはありません。土砂降りの雨で空が厚い雲で覆われていてもその先に太陽がないわけではありません。太陽がないなら昼間でも真っ暗なはずなのです。神様の栄光はどんな時でも沈まない太陽の光のように輝いています。

 嘆きや叫びは、賛美や感謝と私たちの中に、そして私たち教会の中に同居することができます。私たちが教会の一部であるということは、自分の感情が全く感謝も賛美も祈りもできないほどの状態に置かれていたとしても、あなたの口や手に代わって主をほめたたえ感謝してくれる人々がいてくれるということなのです。あなたもまた苦しむ誰かに変わって、その人がやがて目にする恵みを先取りし賛美し感謝することができるのです。


B. 旧約聖書をどう読むか (7−14)

6 しかし、神の言葉が無効になったわけではありません。実際、イスラエルから出た者がすべてイスラエルなのではなく、7 アブラハムの子孫がすべてその子どもというわけでもありません。かえって、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる。」8 すなわち、肉による子どもが神の子どもなのではなく、約束による子どもが子孫に数えられるのです。9 約束の言葉は、「来年の今頃、私は来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。

 この詩の後半に、先週のメッセージに出てきたエサウの子孫とされるエドム人というアブラハムの子孫でありながら、イスラエルという神様の選びの民の範疇には入れなかった民族の名前が出てきます。ロトの子孫とされるモアブ人、またアブラハムとは全く繋がりのない、おそらくヨーロッパから渡ってきたと思われるペリシテ人とともに、民族の敵であり神の敵としてしるされています。

先週の話を少し思い出してみましょう。古代イスラエルの人々は神様は自分たちだけの神様だと考えていました。私たちが先週知ったような意味で選ばれたと理解していたのではなく、自分たちだけが神様に愛される民族だと考えていました。しかし、先週考えた通り、全ての人を愛する神様が他民族を滅ぼしたいと考えるわけがありません。読んだ箇所は神様の預言の形を取っていますが、実は神様の本意ではなかったのです。

そのような意味で聖書、特に旧約聖書には、本当に神様はそう言ったのか?ということを疑わざるを得ない記述が多く出てきます。そのような言葉が民の勘違いとして記録されていても、聖書の神の言としての価値が損なわれることはありません。そこから表面的言葉とは異なる神様の意思を汲み取ることができます。そのことは、実際に人としてこの世界を歩まれたイエスの言動をよく考えることによって可能なのです。


C. 礼拝が生活の中心にあることの強さ (1−6)

10 それだけではなく、一人の人、つまり私たちの先祖イサクと結ばれたリベカの場合もそうでした。11-12 まだ子どもたちが生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるようになる」とリベカに告げられました。それは、神の選びの計画が行いによってではなく、お召しになる方によって進められるためでした。13 「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

 私たちが置かれている状況に目を向けましょう。このユアチャーチという神の家族の中にも、大きな苦難、苦痛、絶望に苦しむ者がいるのです。そこまでではなくても不安、焦り、憂鬱を知らないものは一人もいません。一つの大きな苦難を乗り越えて間もないのに新たな問題を抱えることになる人もいます。人々は言うでしょう「神を信頼して物事が変わるのか?」「神などあなたの思い込みではないか?」

 確かに神様は私たちの思う通りに動いてはくれません。信仰とは神様と格闘して神様の行動に影響を与えることではないのです。先週、話題となったエサウの弟ヤコブが神様の意思によってイスラエルと改名させたれたのは、神の人とレスリングをして祝福されるまで離さないといったからだというエピソードがあります。しかし、先週確認した通り、ヤコブの祝福はその生まれる前から定められていたことであって、ヤコブが勝ち取ったことではありませんでした。

 ですから信仰とは、神様という最強のカードを持ってゲームを思い通りに進めることではなく、困難にあっても神様とともに歩み。与えられた役割を果たしてゆくことです。自分の困難の中にさえ来てくださる神様、その苦しみを共にしてくださる神様というのは、ある人々にとってはあり得ない存在でしょう。しかし皆さんはそうではないはずです。それは皆さんが、神様はあのイエスにおいてご自身を表されたということを信じているからです。

 イエスとして、人の苦しみ、悲しみ、恥の全てを体験され。泣き、笑い、怒り、愛して、約2000年前の30数年をこの地上で一人の人として歩まれた神様。肉体の死さえも克服して永遠の存在として、今私たちをその永遠の中に迎え入れてくださる神様につながっている事実を確認するために、イスラエル人が二つの歌を組み合わせて、神様に向かって歌ったように、私たちもまた永遠の主、イエスにむかって礼拝しましょう、し続けましょう。

私たちはずっと、礼拝とは日曜日に集まってする儀式のことではないと言い続けてきました。礼拝とは、他のことに心を煩わされることなく、神様と親しく過ごす時、対話をする時です。日曜日の朝のこの礼拝も礼拝ですが、ここにきて身を置いただけでは礼拝を捧げたことにはなりません。逆にここにいなくても、一人ででも、神様との時を過ごし親しく語り合うならそれは礼拝です。ですから、この時だけではなく週日の間も、短い時間でも神様と過ごす時<礼拝>を捧げてください。

そしてこの日曜日の礼拝のクライマックスは、このお話ではありません。このあと主に向かって歌う時が礼拝の核心です。 なぜなら私たちが歌うのは神様への語りかけ、叫びであり、同時に神様は歌っている私たち一人ひとりに、親しく語りかけてくださるからです。この礼拝を捧げ続けることによって、どのような時であっても神様が共にいるという事実を確認することができるのです。さあ今日もこれから、口だけではなく心の耳も開いて心からの礼拝を捧げましょう。

(祈り)神様、どんな時でも変わることなく私たちを守り、導いていてくださることをありがとうございます。あまりの辛さにあなたを礼拝することすら忘れてしまいそうな時に、あなたがイエスという一人の人として、この世界に来てくださり、私たちが味わう苦しみ、悲しみ、恥の全てを経験されたことを思い起こさせてください。そして、心をあなたに向けて礼拝させてください。


メッセージのポイント

礼拝を最優先にしている人の強さは、逆境の中ではっきりします。苦難でも喜びでも、さまざまなことに直面していくことによって、神様への信仰=信頼は私たちの内側で確かなものになってゆきます。いつ、どのようなものとしてやってくるかわからない苦難を避けることはできませんが、それに耐える信仰=確かな揺れ動かない心を持つことは可能です。それはどんな時であれ礼拝を頂点とする生き方をし続けることによって可能なことです。


話し合いのために

1. 心が確かとはどのようなことを意味しますか?
2. あなたの敵は誰ですか?


子供たちのために(保護者のために)

自分たちが礼拝をどれほど大切だと思っているか、そして今日学んだその理由を子供達に伝えてください。また、私たちの本当の敵は、外側にいる誰かではなく、私たちの内側にある神様を中心としない思いであることも話してみましょう