神様の選びの不思議(後編)


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神様の選びの不思議(後編)

ローマ 9:14-29

池田真理


 今日は前回に引き続き、神様の選びとは何なのか、なぜ選ばれる者と選ばれない者がいるのか、というテーマでお話しします。ローマ9章の後半、14-29節を、いつものように少しずつ読んでいきます。まず14-16節です。

A. 神様はご自分が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにする

1. 神様の選びは神様の憐れみ (14-16)

では、何と言うべきでしょうか。神に不正があるのか。決してそうではない。15 神はモーセに、「私は憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ」と言っておられます。16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。

 前回読んだ箇所で、神様はヤコブを選び、エサウを選ばなかった、ということが言われていました。また、その選びは、二人が生まれる前から、二人が良いことも悪いこともしていないうちから定められていて、神様の選びは人間の行いの良し悪しによって決められるものではないということが言われていました。

2. 神様は目的を持って一部の人を「かたくなに」する (17-18)

17 聖書はファラオに、「私があなたを立てたのは、あなたによって私の力を示し、私の名を全地に告げ知らせるためである」と言っています。18 このように、神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。

 ここに出てくるファラオは、出エジプト記に出てくるエジプトの王で、イスラエルの人々の敵であり、悪役とも言える人です。でも、そんな悪役でさえ、実は神様が立てたのだと言われています。神様はご自分の力を世界に教えるために「悪い人」さえ用いる、ということです。だから、パウロはここで、「神はご自身が憐れもうとする者を憐れみ、かたくなにしようとする者をかたくなにされる」と言っています。
 ただ、これは、神様が横暴に一部の人を嫌って、彼らを滅ぼすために彼らの心を操作してかたくなにするという意味ではありません。というのは、私たちは皆、元々神様の前に「悪い者」であり、「かたくなな」者だからです。だから、神様が一部の人をかたくなにするというのは、元々かたくなな心をそのままにすると言った方が正確です。
 そうだとしても、神様が一部の人を憐れみ、他の人をかたくななままにするというのは、やはり不公平に感じます。神様が人間の意志さえもコントロールしているなら、人間には選択の余地がなく、責任はないじゃないか、ということになります。続きの19-21節に進みます。


B. 先に選ばれるか、後に選ばれるかの違い

1. 貴い目的に用いられる人とそうでない人がいる (19-21)

19 そこで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。神の御心に誰が逆らうことができようか。」20 ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21 陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか。

 ここで言われているのは、神様は、ある人たちを貴い目的のために造られ、別の人たちを普通の目的のために造られる、ということです。日本語では「貴い器と卑しい器」と言われていますが、「卑しい」という言葉は英語では“for common use”(一般的に使うため)と訳されている通り、ニュートラルな意味で訳すこともできる言葉です。なので、ここは「一つを貴いことに使う器に、一つを普通に使う器に」と訳せばいいと思います。この二つの目的の差が、前回登場した人たちで言うなら、イサクとイシュマエルの違いであり、ヤコブとエサウの違いです。一方は神様に選ばれて、神様のことを世界に知らせるために用いられましたが、もう一方は神様に間接的にしか用いられませんでした。ファラオも後者に入り、神様に直接仕える使命を与えられない代わりに、神様の力を世界に示すために間接的に用いられました。
 そして、誰がどちらの目的で造られるのかは、神様だけが決められることで、人間の意志も努力も関係ありません。神様がご自分で憐れもうと思う者を憐れみ、かたくなにしようと思う者をかたくなにされるというのと同じです。
 そうすると、やはり神様は不公平で、人間に選択の余地はないじゃないか、と言いたくなりますが、次の22-23節が全ての疑問を解く鍵になっています。読んでいきましょう。

2. 神様が人間の罪に忍耐しておられる理由 (22-23)

22 神が怒りを示し、ご自分の力を知らせようとしておられたが、滅びることになっていた怒りの器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうでしょうか。23 それも、栄光を与えようと準備しておられた憐れみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせてくださるためであったとすれば、どうでしょうか。

 ここで何が言われているのかというと、神様は結局のところ全ての人を滅びから救いたいと願われているけれども、その願いを全ての人に伝えるのではなく、特別に選んだ一部の者にしか伝えておらず、それは、その人たちを通して、神様の憐れみがこの世界で知られるようになるためだ、ということです。その人たちというのが、イサクでありヤコブであり、イエスを信じたユダヤ人であり異邦人であり、今これを聞いている私たちです。さっきのたとえで言うなら、貴い目的に用いられる器です。私たちは先に選ばれた者として、神様の憐れみを他の人に伝えていく貴い使命を与えられています。神様の選びは神様にしか決められませんが、その「選ぶ」という働きのプロセスに、私たちも参加させてくださるということです。神様は、そのために全ての人間の罪にずっと忍耐しておられます。

 神様がこんな回りくどいやり方をされる理由は、私たちに驚き、喜んでほしいからです。選ばれるはずのない人が選ばれ、かたくなな人たちの中に心を開いている人たちがいることを、私たちにも知ってほしいと願っておられるからです。そのことが、今日最後の部分で語られています。まず24−26節です。


C. 神様の選び

1. 選ばれていなかった人たちの中から選ばれる (24-26)

24 神は、私たちをこのような者として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。25 ホセアの書でも、言われている通りです。「私は、わが民ではない者をわが民と呼び、愛されなかった女を愛された女と呼ぶ。26 『あなたがたはわが民ではない』と彼らに言われたその場所で、彼らは『生ける神の子ら』と呼ばれる。」

 ユダヤ人は長い間、自分たちの民族だけが神様に選ばれ、愛されていると考えてきました。でも、イエス様が来られ、聖霊様が来られ、神様の憐れみが異邦人にも注がれていることを認めました。それは、それまでのユダヤ人の価値観を根底から揺るがせることです。だから、ユダヤ人内部でそのことを受け入れる人と受け入れない人の間で、ものすごい論争が起こりました。パウロはその最前線で戦った人です。

 ここでパウロが引用している旧約聖書のホセア書も、元々はイスラエル民族内の一部の人を指した預言で、異邦人のことを指していたのではありませんでしたが、パウロはイエス様の視点から自由にそれを解釈し直して、異邦人に対する預言として語っています。それは従来の聖書の読み方から逸脱した読み方と言えますが、パウロにはそれでいいのだと思える確信がありました。イエス様が、愛されるに値しない罪人を愛する方だったからです。

 それまで当然と思ってきた価値観や常識が崩されることは簡単なことではなく、痛みも伴います。でも、神様の愛の大きさを知ったなら、私たちもパウロのように喜んでそれを受け入れていくことができます。そして、イエス様に従って、人の苦しみに寄り添い、共に生きる喜びを知ることができます。それが、神様が私たちに知ってほしいと願っておられる、神様の栄光でもあります。

 27-29節に進みます。

2. かたくなな人たちの中にいる「残りの者」 (27-29)

27 また、イザヤはイスラエルについて、こう叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。28 主は、御言葉を完全に、しかも速やかに、地上で成し遂げるからだ。」29 また、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「もし万軍の主が私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう。」

 パウロの時代、ユダヤ人の多くがイエス様を信じませんでしたが、パウロをはじめ、一部の人たちはイエス様を信じました。それは、かたくなな人たちの中に、本当の意味での神様の民が残されたという意味があります。
 これは、キリスト教会の歴史の中で繰り返されてきたことだと思います。腐敗した教会の中でも、真にイエス様を愛した人たちがいて、その人たちによって教会は刷新されてきました。神様は、教会が腐敗して、ご自分の選んだ者たちが人々に愛を伝えるどころか苦しみをもたらしている時でも、忍耐して、「残りの者」を待っています。彼らの手にご自分の働きを委ね、彼らがその働きに加わることによって神様の栄光を知るためです。

 前回と今回の2回にわたって神様の選びについて考えてきましたが、結局結論は何なのかというと、なかなか一言で言えません。私の理解力不足もありますが、人間には分からないこともあると認めるのも必要なのかもしれません。それでも、これまでの話をまとめてみます。
 神様は全ての人を愛しておられますが、ご自分を愛してご自分に仕える使命を与えるのは、ご自分が選んだ者たちだけです。そして、その一部の者たちのために、ある人たちをかたくななままにされます。なぜなら、かたくなな者たちの中から選ばれる者がいるという神様の憐れみの大きさを彼らが知って、驚き、喜んでほしいからです。でも同時に、かたくなな人たちや選ばれない人たちのことも、神様は等しく愛しておられます。だから、神様の選びは不思議で、私たちはただ神様のなさることに驚き、期待して、歩んでいくだけです。

 クリスマス前に私がメッセージを担当するのは今日が最後なので、次回ローマ書を読むのは年明けになると思います。中途半端なところで中断してしまい、少し残念なのですが、年明けを楽しみにお待ちください。(または憂鬱にお待ちください。)

(祈り)主イエス様、私たちはあなたのことを知らず、自分勝手に生きてきましたが、あなたは私たちを待っていて、出会ってくださいました。そして、あなたを愛して、あなたに仕えて生きる喜びを教えてくださいました。どうか私たちが、自分の狭い視野にとらわれずに、人を愛し、あなたの愛が世界を変えていく働きに加わることができますように。私たちのかたくなな心をあなたが砕いてください。私たちの主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様は全ての人を愛しておられますが、ご自分を愛してご自分に仕える使命を与えるのは、ご自分が選んだ者たちだけです。そして、その一部の者たちのために、ある人たちをかたくななままにされます。なぜなら、かたくなな者たちの中から選ばれる者がいるという神様の憐れみの大きさを彼らが知って、驚き、喜んでほしいからです。でも同時に、かたくなな人たちや選ばれない人たちのことも、神様は等しく愛しておられます。だから、神様の選びは不思議で、私たちはただ神様のなさることに驚き、期待して、歩んでいくだけです。


話し合いのために

  1. 神様が一部の人を「かたくなに」される目的は?
  2. 神様が私たちを選ばれる目的は?

子供たちのために(保護者の皆さんのために)

難しい箇所ですが、「神様は全ての人を愛しているけれども、全ての人を選んでいるわけではない」ということを、前回のメッセージと合わせてご自分の言葉で話してみてください。今回の箇所で取り上げるとしたら、24-26節のホセア書の引用がいいかもしれません。神様の選びにふさわしい人は誰もいません。でも神様は、憐れみによって、選ばれるはずのなかった者を選ばれる方です。私たちが選ばれたのは、他の人よりも何かがすぐれているからではなく、神様が私たちを他の人よりも愛しているからでもありません。なぜ選ばれたのか、私たちには分かりません。でも、選ばれた目的ははっきりしています。私たちが神様を愛し、神様に仕えて、周りの人たちに神様の愛を伝えるためです。