信仰による偏見

By David Hayward https://nakedpastor.com/

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信仰による偏見

ローマ 11:11-24

池田真理


 今日は、ローマ書11章の中間部分11-24節を読んでいきます。テーマは「信仰による偏見」です。私たちは、イエス様が正しい方だと信じるあまり、そのイエス様を信じる自分が正しく、イエス様を信じない人たちは間違っていると決めつけて見下したりしていないでしょうか?そんなことを問いかけている箇所です。最初に11-15節を読んでいきます。

A. 信仰を持つ者が持たない者を差別する (11-15)

11 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れるためであったのか。決してそうではない。かえって、彼らの過ちによって、救いが異邦人に及びました。それは、彼らに妬みを起こさせるためです。12 彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。13 そこで、あなたがた異邦人に言います。私は、異邦人への使徒として、自分の務めを光栄に思っています。14 何とかして私の同胞に妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。15 彼らが捨てられることが世界の和解となるなら、受け入れられることは死者の中からの命でなくて何でしょう。

 ここで問題になっているのは、9章からずっと話されてきたことの繰り返しですが、ユダヤ人の多くがイエスを拒み、反対にユダヤ人ではない人々(=異邦人)がイエスを信じた、ということです。そして、異邦人の信者がユダヤ人を差別するという問題が発生していました。
 パウロはそれに反論し、自分が異邦人に対してイエスを信じる信仰を広めているのも、決して自分がユダヤ人を見捨てたからではないと強調しています。そして、自分の活動の目的は、むしろ、異邦人が信仰を持つことを通して、ユダヤ人にもイエスの素晴らしさを分かってもらうためなのだ、と弁明しています。
 歴史が教えているのは、異邦人のクリスチャンがユダヤ人を差別する問題は、やがてキリスト教が国家権力と結びついた時に、国家による迫害という形でさらに深刻になっていった、ということです。
 また、ユダヤ人の迫害に限らず、私たちは誰でも、イエス様を信じている自分は正しく、イエス様を信じていない人々や他の神様を信じている人々は間違っているという偏見を持ちやすいものです。それは誤りです。このことは後でまた出てくるので、今は次のところに進みたいと思います。16-18節です。


B. 旧約聖書の大切さ (16-18)

16 麦の初穂が聖なるものであれば、パン生地もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがそれに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けているからといって、18 あなたは、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

1. 旧約聖書を軽視してはいけない

 ここでパウロが言っているのは、イエスを信じる信仰はユダヤ人が守り伝えてきた旧約聖書の神様を信じる信仰に基づいている、ということです。旧約聖書は、神様を何度も裏切るイスラエルの民のことが記録されていますが、同時に何度も彼らを憐んで救い出した神様と、その憐れみに応えて何度も神様に立ち帰ったイスラエルの民の記録でもあります。それは、前回も出てきたように、多くの人が神様を信じると言いながら神様を利用しているだけの現実にあって、真に神様を信頼して生きようとする人々を神様が残してくださったということです。
 私たちは、旧約聖書を軽視してしまいがちです。旧約聖書が古代の昔話のようで、イスラエル民族の民族史のような側面もあり、現代の私たちの生活に直接に結びつけるのが難しいからという理由もあります。また、ユアチャーチではいつもお話ししているように、旧約聖書はイエス様の視点を当てはめて読まないと、とんでもない誤解をすることも事実です。それでも、旧約聖書は、天地創造の時から変わらない神様の愛と憐れみを私たちに教え、人間の罪と弱さをも用いて実現される神様の計画の不思議を教えてくれます。

2. ユダヤ教への偏見

 もう一つ、ここで心に留めるべきなのは、神様は確かにユダヤ人という民族を最初に選び、祝福を約束されたという事実です。だから、今はイエスを信じていなくても、ユダヤ人はやはり神様に祝福されている存在なのだと、次回読む箇所でパウロは言っています。それは、ユダヤ人が他の民族よりも優れているという意味ではなく、私たちが現代のユダヤ人やユダヤ人国家を特別に優遇するべきだという意味でもありません。そうではなく、神様は誠実な方で、ご自分のした約束を決して取り消すことはないから、神様のユダヤ人に対する憐れみは変わらないという意味です。
 私たちは、パウロの時代の異邦人クリスチャンたちと同じように、現代においても、ユダヤ人やユダヤ教に対して偏見を持っていないか、注意する必要があると思います。新約聖書には、律法学者やファリサイ派や祭司という、紀元1世紀当時のユダヤ教のエリートたちがよく登場します。そして、彼らはいわゆる律法主義的な教えを説く偽善者として、イエス様にもパウロにも批判されています。でも、それはそのエリートたちの間違いであって、当時でもその教えに疑問を持つユダヤ人はたくさんいました。また、実際、イエス様の死後に起こった戦争でユダヤ人はエルサレム神殿を失い、ユダヤ教の教えも少しずつ改革されていきました。ですから、私たちは、新約聖書のユダヤ教の描き方は偏っていることを認識して、ユダヤ教を誤解しないように注意しなければいけません。
 それでは続きの19-22節を読んでいきます。


C. 信仰は神様の恵み
1. 思い上がってはいけない (19-22)

19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られ、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。21 神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。22 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。そうでなければ、あなたも切り取られるでしょう。

 信仰は私たちが自分の力で手に入れるものではなく、神様が私たちに与えてくださる恵みなのだということが、ここでも繰り返されています。ここでのたとえで言うなら、誰が折り取られるか、誰が接ぎ木されるかは、私たちが決めることではありません。人が信仰を持つか持たないかは、神様の意志によります。私たちは、自分自身もただ神様によって接ぎ木された枝に過ぎないことを忘れてはいけません。誰も自分の力でイエス様につながっているのではなく、イエス様の方が私たちのことをつかんでいてくださるから、私たちは信仰を持ち続けることができます。
 最後の23-24節に進みます。

2. 不信仰を信仰に変える神様 (23-24)

23 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるからです。24 もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

 神様の恵みというのは、罪人を赦し、正しくない者を正しい者としてくださる恵みです。神様を拒んでいた者の心を変えて、神様を信頼する心に変えてくださるのも、神様の力です。
 私は植物の栽培に全く詳しくありませんが、今日の箇所について勉強する中で、接ぎ木の技術について一つ知りました。接ぎ木というのは、普通、栽培用で弱ってしまった木を蘇らせるために、その木の枝を、生命力のある野生の木に接ぐものだそうです。
 でも、今日の箇所でパウロがしているたとえはその反対です。大切に栽培されている良い木の枝を折り取って、代わりに野生の木の枝を良い木に接ぎ木する、という話です。それは不自然で無理のある方法ですが、パウロは、それが神様のされていることなのだ、と教えています。私たちの自然の(罪の)性質に反して、神様は私たちをご自分のものとして引き寄せてつながっていてくださるということです。
 そして、パウロはさらに神様のしてくださることに期待しています。一度折り取られてしまった枝でも、神様はまた元の木に戻すことができる、と言っています。それは、良い木に接ぎ木された野生の木の枝が豊かな実を結ぶことによって、折り取られた枝がその枝を妬むことから始まります。それは、信仰という恵みを先にいただいた私たちが、神様によってあらゆる偏見から自由にされて、互いに許し合い、愛し合うことによって起こります。

 私たちは、イエス様が正義の方だと信じ、私たちもイエス様が望まれる正義が実現されることを求めて行動していく必要があります。でも、正しいのはイエス様であって私たちではないということを、いつも覚えておかなければいけないと思います。そして、自分の中にある偏見に気が付き、間違いを認めて、自分が変えられていくことを受け入れることが大切だと思います。

(お祈り)神様、どうかあなたの霊で私たちの心を導いてください。崩されるべき偏見や傲慢さがあるなら、どうか気付かせてください。私たちが、自分の正しさよりもあなたの正義が何かを、いつも慎重に誠実に、追い求めることができるように、助けてください。でも同時に、あなたの正義に反して、弱い人が苦しんだり、排除されたりする場合には、はっきりと反対し、あなたの正義が行われるように行動する勇気と知恵を私たちに与えてください。ウクライナでの戦争をやめさせ、難民となった人たちが家に帰れるために、私たちにできることを教えてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは、神様を信じる自分は正しく、信仰のない人や別の信仰を持つ人は間違っていると勘違いしてしまう傾向を持っています。それは誤りです。私たちは、正しくない者を正しいとしてくださる神様の恵みによって救われたに過ぎません。また、新約聖書のユダヤ教の描き方は偏っていて、私たちにユダヤ教に対する誤解を与えることも知っておきましょう。

話し合いのために
  1. 自分が正しく、あの人(たち)は間違っている、と感じていることはありますか?それは偏見でしょうか、正義でしょうか?
  2. 自分の信仰と信教の自由をどのように考えていますか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

新約聖書では、ユダヤ教のエリートたち(律法学者やファリサイ派、祭司と呼ばれる人たち)がイエス様の敵として現れていて、いわゆる律法主義的(正しい行いによって救われる)な偽善を説いていると批判されています。でも、それは当時のユダヤ教のエリートたちの間違いであって、当時でもその教えに疑問を持つユダヤ人はたくさんいたはずですし、イエス様の死後に起こった戦争でユダヤ人は神殿を失い、ユダヤ教は内側から改革されていきました。どんな宗教でも、内部で権力を持った人間が腐敗し、その宗教が真に教えることから離れていってしまうことが起こるのだと思います。私たちはイエス様を自分の唯一の主と信じ、イエス様だけが真実の神様であると信じていますが、そのことと信教の自由や宗教的寛容は対立しません。何を信じていようといまいと、私たちは許された罪人にすぎず、神様の恵みによって生かされているに過ぎません。私たちにとって大切なのは、イエス様が十字架で教えてくださった愛によって人を愛することです。