主こそ私たちの助け、そして盾

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主こそ私たちの助け、そして盾

詩篇 115

永原アンディ


いつもなら先週のシュロの日曜日と同じように、このイースターの日曜日は、シリーズを離れて福音書からお話しするのですが、今続けている詩編のシリーズの箇所がイースターにふさわしい内容なので、そのままシリーズとしてこの115編を取り上げることにしました。 少しづつ読んでいきましょう。

A. 私たちは苦しみを通して罪を自覚する (1-3)

1 主よ、私たちにではなく 私たちにではなくあなたの名にこそ、栄光を与えてください あなたの慈しみとまことのために。
2 なぜ国々は言うのか「彼らの神はどこにいるのか」と。
3 私たちの神は天にいまし御旨のままにすべてを行われる。

栄光という言葉はわかるようでわからない言葉です。 聖書では、神様の現れ(顕現)、そこにおられる(臨在)状態を指す言葉です。一般的には、すばらしい活躍や名誉ある地位、つまり人間の輝かしい業績を指す言葉として使われます。

 詩人は、私たちが神様のように輝く事を求めるのではなく、主である神様ご自身がそこにいて輝やいてくださることを求めています。人の慈しみ、正しさ、誠意ではなく、神様のそれらを求めています。

 イスラエルの周りの国々の民は言いました「あなた方の神なんてどこにもいないじゃないか!」。それに対して神の民は彼らに応えます。「見える神なんて神ではない。本当の神は、人の目には見えない超越した存在なのだ。」 先週、聞いたボンフェファーの言葉を覚えていますか?「私たちは、神の前で、神と共に、神なしで生きる」 神なしでとは、神様を自分の道具のように見なすのではなく、むしろ、人の目には見えない超越した方によって、ここ遣わされて、神様の栄光の道具として歩むことです。それは「神のもとで、あるいは神の中で生きる」と言ってもいいでしょう。 続く部分で、それとは正反対の生き方が記されています。 4−8節を読みます。


B. 偶像礼拝の愚かさ (4-8)

4 彼らの偶像は銀と金 人の手が造ったもの。5 口があっても語れず目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず 鼻があっても嗅ぐことができない。7 手があっても触れず足があっても歩けない。喉からは声も出せない。8 それを造り、頼る者は皆偶像と同じようになる。

 神様の栄光を求めて生きることの正反対の生き方が偶像礼拝だということなのです。 偶像礼拝とは実際に木や石で作った御神体を信じることには限りません。 そのような人はそれほど多くはいないでしょう。偶像礼拝の本質は神様以外のものに信頼することです。 例えば自分の地位や名誉ですが、それらはまさに人の手で作られたものと言えるでしょう。そして、肝心な時には力にはなってくれません。限界のある人間が作ったものなのですから無理はありません。

8節にはさらに恐ろしいことが書かれています。偶像を作り、それに頼って生きるものはその人自体が偶像と同じようになるというのです。どのようになるのでしょう?5、6、7節に書かれています。

5 口があっても語れず目があっても見えない。
6 耳があっても聞こえず 鼻があっても嗅ぐことができない。
7 手があっても触れず足があっても歩けない。喉からは声も出せない。

偶像を礼拝するなら、真実を見抜くことや聞き分けることができません。だから、正しい、力ある、愛ある言葉を発することも、正しい、力ある、愛ある行動することもできないのです。

しかし私たちは簡単に偶像を作って拝んでしまう者なのです。それは巧妙に私たちの心に忍び込んできます。まるでそれが信仰的であるかのように、聖書やキリスト教的なことまでも偶像的なものとなり、実は主をイエスではなく、本や人間の組織に従うものとなってしまいやすいのです。そこで、詩人は私たちになすべき事を教えてくれます。9-11節を読みましょう。


C. 信頼が祝福をもたらす
1. 主を信頼しよう (9-11)

9 イスラエルよ、主に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
10 アロンの家よ、主に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。
11 主を畏れる人々よ、主に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。

主を信頼すること、それが偶像に心動かされないためにするべきことです。「イエスこそ私たちの助け、私たちの盾」 この事を自分の魂に毎日、言い聞かせなければ、いつの間にか、何か別のものが、私たちの心の中の真ん中に置かれた椅子に、そこからイエスを追い出して座ってしまうでしょう。私が皆さんに口をひらけば、「何よりも礼拝する事を生活の中心におこう」といい、カヴェナントの一番最初にもそのことが書かれているのは、この主への信頼を見失わないため、ふらふらと迷子になってしまわないためです。
自分の意思を過大評価してはいけません。それは自分に栄光を帰すことです。そしてそれは必ず色褪せます。
しかし、自分の弱さを知り、ただ主に頼る人なら主はその人を助けることができます。祝福することができます。
残りの部分を読んでいきましょう。

2. 主に祝福を求めよう (12-18)

12 主が私たちを思い起こし祝福してくださるように。イスラエルの家を祝福しアロンの家を祝福してくださるように。
13 主を畏れる人々を祝福してくださるように小さな人たちも大きな人たちと共に。
14 主があなたがたを増し加えてくださるようにあなたがたもその子孫も。
15 あなたがたが主に祝福されるように天と地を造られた方に。
16 天は主のもの。地は人の子らに与えられた。
17 主を賛美するのは死者ではなく沈黙の国に下った人々でもない。
18 私たちこそ、主をたたえよう今より、とこしえに。ハレルヤ。

 十字架の上で息絶えたイエスが復活されて弟子たちの前に現れた時、最初の弟子たちは最大の栄光を見ました。 それは、ほとんど消えていた彼らの信仰を復活させました。弟子たちはそれから、イエスの言われた通り、全ての人にイエスを紹介しようと世界中に出てゆき、およそ2000年後に皆さんにも、その良い知らせが届いたのです。それはイエスに信頼を置いて生きるなら、神様のあふれるばかりの祝福の中を歩み続けることができるというグッドニュース・良い知らせ・福音です。私たちが毎日曜日の朝、共に集って礼拝を捧げるのは、日曜日の朝に復活され弟子たちにその姿を表された事を喜びたたえ、礼拝するためです。今朝も、いえ、生きている限り、「主よ、あなたは確かに生きておられる、私たちの助け、盾です」と、よみがえられたイエスをたたえましょう。

(祈り)主よ、あなたが復活された朝を記念するこの礼拝で、私たちもまたあなたの栄光を見上げます。虚しい偶像礼拝に陥ることなく、ただあなたを信頼します。私たちは、時にあなたへの信頼を揺るがすような出来事が起こることを知っていますが、あなただけが私たちの私たちの助け、そして盾であることを忘れません。どうぞ、私たちがあなたの復活の喜びを力として歩み続けることができるように導いて下さい。主イエス・キリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

イエスは十字架にかけられましたが、死の力を打ち破りよみがえられました。主は今も私たちと共にいてくださり、私たちを助け、攻撃から守られます。私たちはイエスを信じることによって、地上での有限な存在ではなく永遠の存在とされました。それは永遠の存在であるイエスが保証していてくださることです。この恵みのゆえにとこしえに主をほめたたえましょう。

話し合いのために
  1. 主の栄光とはどのような事を意味するのでしょうか? 
  2. 最近どのようなことで祝福を実感しましたか? 
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

子供達のためには、この詩編ではなく福音書の中の復活の記事のどれかを読んでください。そして自分(保護者)がどのように復活を信じているのか話してあげてください。