א (アレフ):主の道を歩む喜び

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א(アレフ):主の道を歩む喜び

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 1/22 

詩編119:1-8、ルカ6:20-26

永原アンディ


 詩編119編は長かった前回よりさらに長い、詩編最長の詩です。日本語の聖書にはアルファベットの歌と書かれています。 8節ずつがひとまとまりになっていて、それら8節の文頭は同じ文字が配されています。 ヘブル語のアルファベット22文字が順番に使われているので、たとえば今日の部分は原文なら8節の全ての文頭に א (アレフAleph)が置かれています。もちろん残念ながら他の言葉に訳された聖書ではこのような様式を再現することはできません。

 しかし、この119編の主題ははっきりわかります。それは「律法」です。 たった一節(122節)の例外を除いて、全ての節に「律法 (The Law)」か、それを表す「定め (statutes)」「道 (ways)」「諭し (precepts)」「掟 (decrees)」「戒め (commands)」「裁き (laws)」「あなたの言葉 (your word)」「仰せ (promise)」と訳された言葉が一つ以上含まれているという特徴を持っています。 

 そこで私たちはこの119編を通して「律法」の本質を問い直すことができます。 私たちは「律法」を「イエスの福音」によって克服された旧弊としてマイナスに捉えがちです。 実際イエスも当時の宗教家達を「律法主義者」と呼んで非難しました。 しかしイエスが非難したのは、決して「律法」そのものなのではなくそれを運用した宗教家たちでした。 彼らは律法を体系化し、解説を加え厳格な規則集にしてしまったのです。 しかし「律法」は本来、神様のユダヤの民への「語りかけ・言葉」でした。つまり、イエスとして来られる前の「福音」であったはずなのです。

 そこでこのシリーズでは神様からの良い知らせ・福音であった「律法」の側面を見直すことを通して、イエスの福音の素晴らしさを再発見していきたいと考えています。 それでは今日の部分、א (アレフAleph)がそれぞれの文頭に置かれている最初の8節を見てゆくことにしましょう。 最初の部分にふさわしく全体の基調をよく表しています。それは<神様は、人が幸いな道を歩むために律法を与えて下さった>ということです。

(アレフ)
1 幸いな者、完全な道を行き 主の律法を歩む人は。
2 幸いな者、主の定めに従う人 心を尽くして主を尋ね求める人は。
3 彼らは不正も働かず主の道を歩む。
4 あなたは命じられました あなたの諭しを固く守るように、と。
5 私の道が確かでありますように あなたの掟を守るために。
6 そうすれば、あなたのどの戒めに目を留めても 恥じ入ることはありません。
7 あなたの正しい裁きを学びながら まっすぐな心であなたに感謝し
8 あなたの掟を守ります。 決して私を見捨てないでください。

1. 歩む道としての律法 (1-3)

1-3節をもう一度読みましょう。

(アレフ)
1 幸いな者、完全な道を行き 主の律法を歩む人は。
2 幸いな者、主の定めに従う人 心を尽くして主を尋ね求める人は。
3 彼らは不正も働かず主の道を歩む。

 幸いな人生を歩むことを望まない人はいませんが、幸いの感じ方は人それぞれです。 多くのものを持ちながら自身を不幸と感じている人もいれば、多くを持たなくても自分は幸せだと感じている人もいます。 幸せな人には客観的基準があるのでしょうか?

 神様はここで詩人を通して「完全な道を行き 主の律法を歩む人、主の定めに従う人 心を尽くして主を尋ね求める人」と教えています。 完全な道と聞くとつい自分自身の在り方を思い浮かべて“無理”と思ってしまうかもしれませんが、その発想こそ律法が律法主義に変質する原因です。 人は神様の要求を自力で守り完全になれる存在ではないし、神様もそんなことを望んでいるのではありません。 「完全な人」ではなく「完全な道」を歩むという勧めなのです。

旧約の民の勘違いは、現代のキリスト教の中でも起こります。 イエスは私が道ですと言われ、誰にでもついてきなさいと、旧約の宗教家たちに、神様の道を歩む資格がないと切り捨てられた人々を招きました。 完全な道とはイエスご自身です。私たちは無力で小さな者です。 だから「心を尽くして主を尋ね求め」続けなければ、幸いな道から逸れてしまいます。 3節によれば、それは正しさの追求をおろそかにしないことです。不正義のゆえに苦しむ人々を見放さない愛の道を歩みましょう。そこに律法の本質があるのです。

2. イエスは私たちに何を命じられたのか? (4)

あなたは命じられました あなたの諭しを固く守るように、と。

 神様の律法、この節で言えば「諭し」は、最初にお話ししたように誤解されて伝わりました。 その誤解を解くためにイエスはこられたと言ってもいいと思います。 それは一言で言えば「愛すること」、もう少し広く言えば「神様を愛し、互いに愛し合い、世界を愛する」というユアチャーチカヴェナントになります。

私たちはもはや律法の中で、神様を、人を愛するということにつながらない規定から解放されている者です。 イエスは諸規定がむしろ人々を阻害していたことを明らかにして無視しました。 それは律法を軽視したからだったのではなく、律法の意味を変質させてしまった宗教への抗議であり、本来の律法を取り戻す試みだったのです。 神様を愛し、神様に倣って人々を愛すること以外に私たちに求められる規定はありません。

しかしこのことは、私たちの中でも誤解されやすく、〇〇をすることはクリスチャンにふさわしくないとか、LGBTQ+は罪だと言ったりする人が、残念ながらキリスト教会内にも存在します。 これは、イエスがそこから離れなさいと警告した律法主義への後戻りであり、キリスト教というよりはキリステ教と呼ぶべきものです。

3. 先をよく見てそれずに進む  (5,6、ルカ6:20-26)

私の道が確かでありますように あなたの掟を守るために。そうすれば、あなたのどの戒めに目を留めても 恥じ入ることはありません。

アメリカに「道の途上にある教会」という名前の教会がありますが、すべての教会は道の途上にあるのです。 また私たち一人一人も人生の道の途上にあります。それは現状に満足しない生き方であり、同時に、現状に絶望しない生き方です。それがイエスの次の教えによく表されています。

さて、イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々があなたがたを憎むとき、また、人の子のためにあなたがたを排斥し、罵り、その名を悪しきものとして捨て去るとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 私たちには知らされていない終わりの日が来るまで、私たちは途上の存在であり続けます。 重要なことは、満足せず、絶望せずイエスとと主に歩み続けることです。それだけがイエスと共にいる方法です。それだけが幸いな道なのです。どうぞ、この道を歩み続けてください。

4. 私たちの感謝、決意、願い (7,8)

残りの2節を読みましょう。

あなたの正しい裁きを学びながら まっすぐな心であなたに感謝しあなたの掟を守ります。 決して私を見捨てないでください。

ここに私たちが聖書を読み、それを分かち合うことが大切である理由があります。 歩みの途上にあるということは学びの途上にあるということでもあります。 何を学ぶのでしょう?正しい裁きです。 私たちは法律家の卵ではありませんが、彼らと同じように、聖書に記されている神様の判例を注意深く読んでおく必要があります。 イエスならこの事柄を見てどう思われ、どうなさるだろうかということを判断するために学びます。 しかし、ここにはそれだけで十分と書いてはありません。

「正しい裁きを学びながら、まっすぐな心であなたに感謝し、あなたの掟を守ります。 決して私を見捨てないでください。」 これらが意味することは何でしょう。ユアチャーチでは、生活の中で最優先すべきことは何であると教えられてきたでしょうか? 聖書の学びではありません。礼拝です。礼拝こそ感謝し、決意を言い表し、願い求めることです。 ただし、礼拝は一方通行の時ではありません。なぜなら、その時、同時に神様はご自身の思い、憐れみ、励ましを私たちの心に語り掛けてくださるからです。 つまり、こちらからの一方通行の時でも、メッセージを聞くだけの一方通行の時でもありません。 このお話の後、私たちは一緒に数曲、神様に向かって歌います。それが礼拝の時です。 主に感謝を、嘆きを、訴えを、決意を、愛の告白を心の底から歌いましょう。 ただし同時に神様が心に語り掛けてくださることを期待しながらです。

 

(祈り) 神様、あなたが私たちをあなたと共に人生を歩むように招いてくださって本当にありがとうございます。 愛に乏しい私たちのところに来てくださり、あなたの方から愛し、受け入れてくださいました。 私たちがあなたと共に歩む時に、あなたの霊に満たされて、少しずつあなたのように愛する者と変えられています。 あなたがただ教えるだけでなく、愛するために聖霊で満たしてくださっていることをありがとうございます。 どうぞ、今週も力を与えてあなたの道を歩ませてください。感謝して、期待して、主イエスキリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

律法の本質は規則ではなく、「私と共に歩みなさい」という神様の呼びかけです。しかし長い時間の経過と共に、人の律法理解は表面的に守るべき規則のようなものになってしまいました。神様がイエスとして来られたのは、この誤解を解き、私たちを再び「主・神と共に歩む者」としてくださるためでした。

『イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。』(ヨハネによる福音書 14:6)

話し合いのために
  1. 律法と律法主義の違いは?
  2. なぜ律法は“規則”になってしまったのでしょう?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

保護者は子供にとって最も身近な律法主義者となってしまう危険があります。大人がまず律法の本質を見誤らないことが大切です。子供たちと一緒に読みましょう。そしてここに書かれている、“完全に”とか、“掟を守る”といった命令の意味が、自力で行う道徳的命令なのではなく、イエスに心を向けて、イエスと共に歩むこと、イエスをもっとよく知ること、イエスと仲良くなることであると安心させてあげてください。ヨハネによる福音書 14:6も紹介して、共にイエスについていこうと励ましてください。