ג (ギメル):寄留者に欠かせない持ち物

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ג (ギメル):寄留者に欠かせない持ち物

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 3/22
詩編119:17-24

永原アンディ


 律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ3回目は、3つ目の段落、各行の初めにヘブライ語のアルファベット3番目のギメルが置かれた17-24節を読みます。ギメルは、ラクダ(ヘブライ語: גמל gamal → 英・camel)?の形と言われていますが、別の説もあります。

 今日は参議院選挙の投票日、当日です。一昨日の恐ろしい出来事が、皆さんの投票に影響を与えるのでしょうか?それは決してあってはならないことです。中心的な方がなくなって気の毒なのでその方の党へ投票というのは、国の将来のためになりません。こんな時こそ冷静に、政策によって投票しなければなりません。暴力によって投票結果が左右されることになれば、暴力が頻発することになります。選挙権をお持ちの方は投票を済ませましたか?私も今朝済ませてきました。イエスを信じる者はどのように政治に関わるべきなのか?皆さんも考えたことがあると思います。選挙は毎回大切ですが今回は特に重要な選挙です。それはこの国の方向性が大きく変わる可能性を持っているからです。日本は今まで、敵が攻めてこない限り、こちらから攻撃しない、核兵器を持たないという姿勢を持っていましたが、それをやめて、”普通に”戦争できる国、核兵器を持つ”強い”国にするために憲法を変えるべきだと考える人が増えてきているからです。

 キリスト教界でも変化が起こりました。もともと戦時下で迫害を受けたり、政府の言いなりになってしまい朝鮮半島のクリスチャンにまで天皇崇拝という偶像礼拝をさせてしまったという苦い過去を反省し、平和を大切に考えてきた日本のクリスチャンは、日本国憲法を平和憲法と理解し、護憲的な立場をとる人が多かったのです。しかし今回は、憲法を変えて”普通に”戦争できる国、核兵器を持つ”強い”国にしたいと考える政党から、一人の牧師が立候補し、彼を応援する牧師たちが、自分の教会の会員はもちろん、全国の教会にトラクトを送り応援を要請しました。もちろん牧師がどの政党を支持してもいいのです。しかし、その考えに同調することを、牧師とか教会が求めるのは間違っていると私は思います。しかも、彼らはできるだけ政党の名前を出さず、その党の政策にも触れず、クリスチャンが、牧師が立候補したから、彼の名前を書いて応援しましょうと勧めています。

 私は教会を、例えば公明党を支える創価学会や自民党を支えるいくつかの宗教団体のような集票マシーンにしてはいけないと考えます。教会は、主であるイエス自身が権威的であることを捨てられた、大きな家族です。強力な権威のもとにある組織ではありません。15世紀の宗教改革が起きたのは、教会自体が神様のような大きな権威となって、一人一人が直接神様につながることを妨げたからです。 教会を挙げて選挙運動をすることは、直接、神様につながって、神様から聞くことのできる家族からその権利を奪い、教会・牧師の権威に従えとソフトに言っているのと同じです。
 このことは、今私たちがシリーズで考えている「真の律法に従う」ということに深く関係しています。簡単に言えば、教会がメンバーに自分で決めないで牧師の押す政党、候補者に投票しましょうと勧めるのは“律法主義的”で本当の律法=神様の言葉に従うことではなくなってしまうのです。それでは、本当に神様に従うことにはなりません。本当に神様の言葉に聞き従うためのポイントの一つが今日のテキストに記されています。それでは全体を通して読んでみましょう。

(ギメル)
17 あなたの僕に報いてください
生きて あなたの言葉 を守れるように。
18 私の目を開いてください
あなたの律法 による奇しき業に
目を留めることができるように。

19 私はこの地では寄留者です。
あなたの戒め を私に隠さないでください。

20 私の魂は、やつれ果てるほどに
いつも あなたの裁き を待ち焦がれています。
21 傲慢な呪われた者らを
あなたの戒め から迷い出る者らを
あなたは叱りつけてくださいます。
22 そしりと蔑みを私から払いのけてください。
あなたの定め に私は従ってきました。

23 たとえ高官たちが座し、私に何を言ったとしても
あなたの僕は あなたの掟 を思い巡らします。
24 あなたの定め こそ私の喜び
私の良き助言者。

1. 私たちが神様に求めるべきこと (17,18)

 最近、神様に「〇〇してください」と祈りましたか?何をしてくださいと祈りましたか?私たちの「〇〇してください」にはキリがありません。足りないことは次々とやってきます。神様にしてもらいたいことは山ほどあります。

 誰かの切実な必要のために祈ることを「とりなしの祈り」と言いますが、自分の必要のために何でもかんでも祈るのは「おねだりの祈り」、祈りではなく「おねだり」です。親は子供のおねだりに全部応えません。子供の真の必要を知っているからです。神様も同じです。けれども、今読んだ最初の2節には、わたしたちが例外なくするべき「〇〇してください」が紹介されています。

生きて あなたの言葉 を守れるようにしてください。あなたの律法 による奇しき業に目を留めることができるように、私の目を開いてください。

律法の本質は、書かれた規則ではなく、多くの言葉に言い換えられる、神様のわたしたちに対する意思です、とこのシリーズでお話ししてきました。テキストに下線が引いてある言葉です。ですからそれを守って生きるということは、規則違反をしないというような消極的なことではないのです。むしろ全身全霊をこめて、神様の意思を求めそれに従うことに他なりません。
 
 しかし、悲しいことに私たちは自分の力では、神様の意思を知ることも、行うこともできません。祈って、神様の力でそうさせていただくしかないのです。悪の力の働くこの世界の中で、神様の言葉の力もその現れを見ることも困難です。だから神様に「目を開いてください」と祈ります。そして神様は私たちのその祈りに必ず応えてくださいます。

2. この世界における私たちの地位 (19)

19節をもう一度読みます

私はこの地では寄留者です。
あなたの戒め を私に隠さないでください。

 寄留者とは、様々な理由で母国を離れ、他の地に住んで生活しているけれども、そこに同化するわけではなく、母国のアイデンティティーを持ち続ける者のことです。イスラエル民族はその歴史の多くの時代を寄留の民として過ごし、現在でも本国以外の多くの場所で生活していて、神の民の象徴的な存在です。

 そしてイエスもまた寄留者の中の寄留者として、その人としての短い人生をイスラエルの民の中で過ごされました。そして、当時の律法の教師たちにも負けない、律法の知識を持ちながら、書かれた律法に支配されるのではなく、心に語られる神の言葉=真の律法に従って生きることを教えられました。

 イエスに従って生きる者もイエスと同様に、この世界では寄留者です。私たちの本当の住まいは神の国(神の支配の下)なのです。この世界では多くの人々が神様に従うことに興味を持たず、自分の欲望が神であるかのように、欲望に従って生きています。そして、その結果、強い者が弱い者を虐げる世界になっています。しかし、イエスに従って生きる者には、神様の言葉に従うことによって得られる力と平安と喜びによって、寄留地でも神様の愛と正義を伝える者として歩むことができるのです。

3. 寄留者の憂鬱 (20-22)

次の部分を読んでみましょう。

私の魂は、やつれ果てるほどに いつもあなたの裁き を待ち焦がれています。
傲慢な呪われた者らを あなたの戒め から迷い出る者らを あなたは叱りつけてくださいます。
そしりと蔑みを私から払いのけてください。 あなたの定めに 私は従ってきました。

 私たちは、聖書や歴史を通してイスラエル民族の苦しみを聞いています。当事者として知っているわけではありません。わたしたちが想像する以上に、民族としての苦しみがあり、今も彼らに対する偏見は続いています。世界は常にイスラエルを異質なものと見てきたのです。

 イエスは、永住の地と思われた約束の地が、ローマ帝国の支配下にあった時代にその民の中に生まれました。しかし、先に触れたようにその民の中にあってもイエスは異質な方だったのです。自国の民の中に生きていても、世界からも民からも受け入れてもらえない存在でした。マタイとルカは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」というイエス自身の言葉を紹介しています(マタイ8:20, ルカ9:58)。それは“神の国”が世界とはもちろん、イスラエルとも異質なものであったからです。

 人は誰でも、些細な違いを取り上げて、異質な存在を排除しようとします。それは条件をつけずに「愛しなさい」と言われる、神様の意志に背を向ける罪の性質の現れです。もちろんこの国も例外ではありません。むしろ、そのような排除の傾向が今までになく強く働いているように感じられます。ヘイトスピーチ、LGBTQ+、外国人、いろいろな物差しで測られる少数者に対する偏見、差別を助長する人々の声が大きくなっていると感じます。 

 先週、ある方に教えていただいたのですが、それは”普通”であることを求める暴力なのです。福音書を読んで調べてみてください。イエスは、普通ではないことを全く責められませんでした。むしろ、大人ばかりの普通の集会にするために子供達を排除しようとした弟子たちを叱りつけ、子供たちをご自身のまわりにこさせました。”普通”は実は自己中心的な感覚に過ぎません。ただそれを多数派が共有しているので、自己中心と思わずに済んでいるにすぎないのです。そして誰もが特定の物差しを使えば”普通”ではないのです。わたしたちは、イエスが自分を受け入れてくださったように、ユアチャーチを名乗るにふさわしく互いの普通でない者であることを受け入れ合いましょう。

 神の意思に従い、小さい者、弱い者、つまり普通ではない者の側に立つイエスは、民族にも世界にも疎まれ、権力者とその声に扇動された人々によって十字架につけられたのです。

 イエスを主・神と信じ、その意思に従ってこの地上を歩めば、イエスに向けられた憎悪の目はわたしたちにも向けられます。その辛さを詩人は神様に委ねて、心の健康を保つことができるようにしてくださいます。その方法を教えてくれるのが次の部分、23,24節です。

4. それでも、神様の言葉で喜んで生きられる (23,24)

たとえ高官たちが座し、私に何を言ったとしても
あなたの僕はあなたの掟 を思い巡らします。
あなたの定め こそ私の喜び
私の良き助言者。

 力を持つ人々が、思い通りの社会を実現するために、法を作ったり、変えたり、人々の権利を制限するということが、この世界ではずっと行われてきました。イスラエルの民も、神様に信頼することをせずに王を求めて、結局、神様の忠告通りにその王たちによって苦しみました。

 イエスが地上にこられ時代、人々は、国内の指導者と、国を支配するローマという二重の権力の下に置かれ、その状態から救ってくれる救世主:メシアを待ち望んでいました。イエスは、そのような軍事的、政治的メシアとして勝手に期待され、勝手に失望して、十字架に架けろの大合唱で死に追やられました。ですから、その血は権力者、宗教指導者だけではなく、イエスに期待し、失望した民衆によって流されたのです。

 そのような状況の中にあってイエスがとり続けた態度がこの部分に表現されています。イエスに従って生きようとする私たちは、やはりこの言葉に従うべきです。それが、今の世界に生き延びる態度です。さまざまな形で私たちの存在は脅かされます。先にお話ししたように教会も気をつけていなければ加害側になってしまいます。その時、迫害されている側は、イエスが、律法学者たちに、王に、ローマ総督に色々と言われた時に取られた態度でいることで、神様に守られます。誰に何を言われても、イエスの言葉が私たちを強めます。イエスの言葉が私たちを喜ばせます。迷った時、確信を持てない時の助言者となってくれるのです。

 寄留者である私たちは多くを所有することはできません。しかし神の言葉さえ携えていれば、私たちはこの世界を喜びながら生きてゆくことができます。

(祈り)

神様、あなたが私たちと共に、私たち一人ひとりと共にいてくださることが私たちの救いです。あなたがかけてくださる言葉によって歩み続けることができます。あなたの言葉で励まされることを知らない私たちの愛する人々に、あなたの言葉が私たちを通して届きますように。あなたが、あなたの言葉をかけようと人々を招く時、私たちが、偏見によってそれを邪魔することがありませんように。むしろ私たちの持つ偏見を溶かし、あなたの言葉の器として私たちを用いてください。感謝して、期待して、イエスキリストの名によって祈ります。

さあ今朝も、主に向かって声をあげ、心の耳を開き、神様の声を心に聞きましょう。ワーシップタイムの始まりです。


メッセージのポイント

イエスに従って生きる者は、この世界では寄留者です。私たちの本当の住まいは神の国(神の支配の下)なのです。この世界では多くの人々が神様に従うことに興味を持たず、自分の欲望が神であるかのように、欲望に従って生きています。そして、その結果、強い者が弱いものを虐げる世界になっています。しかし、イエスに従って生きる者には、神様の言葉に従うことによって得られる力と平安と喜びによって、寄留地でも神様の愛と正義を伝える者として歩むことができるのです。

話し合いのために
  1. なぜこの世界は不正義と無慈悲に満ちているのでしょうか?
  2. 寄留者の苦しみとは?喜びとは? 
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

「正義とは何か」「愛とは何か」聞いてみましょう。それは、決して子供たちにとって分かりにくい抽象的な概念ではなく、親子やきょうだいといった身近な人間関係の中にも存在する事柄です。むしろ、そこが基本となって広がってゆき、やがて持つであろう世界観の基礎となります。 教会は大きな家族であれば、家庭は小さな教会かもしれません。神を愛し、互いに愛し合い、人々を愛するというユアチャーチカヴェナントは家族のカヴェナントでもあるのです。