他人の信仰を支配してはいけない

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他人の信仰を支配してはいけない

ローマ 14:1-12

池田 真理


 今日からローマ書14章に入っていきます。今日は14:1-12から、「他人の信仰を支配してはいけない」ということをお話しします。いつものように、少しずつ読んでいきます。まず1−3節です。

A. 信仰は一人ひとりと神様の関係
1. 信仰の弱い人と強い人がいる?(1-3)

1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3 食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです。

 ここで言われているのは何かのたとえ話ではなく、実際に何を食べるか食べないかという問題です。これは当時の教会で広く議論になっていた問題です。旧約聖書には豚肉や血抜きされていない肉は食べるべきではないという規定があり、ユダヤ人は食べませんでした。でも、パウロやペテロなどの当時の教会のリーダーたちは、彼ら自身ユダヤ人ですが、異邦人が信仰の仲間に加わる中で、徐々に、汚れている食べ物などないのだと考えを改め、そのように教えるようになりました。でも、ユダヤ人の中にはそのことをなかなか受け入れられない人たちもおり、食事に関して意見の対立が起こっていました。

 この手紙の書き手であるパウロは、ここで、食べ物の規定にこだわる人々のことを「信仰の弱い人」と呼んでいます。そして、自分はそんな規定にはもうこだわらない「信仰の強い人」の立場から、その弱い人々を批判してはならないと教えています。

 現代の私たちはもう、食事に関する規則で意見が対立するということはありません。でも、どのような信仰生活を送るべきかということに関しては、教会によって教えていることがかなり違います。

 ユアチャーチでは、日曜日の礼拝は何があっても必ず出席するように、とは考えていません。現代の社会では日曜日が仕事の人も多いですし、日本では家族が全員信仰を持っているとは限らず、家族の都合を優先する必要があることもあるからです。重要なのは、毎週日曜日にこの場所にいるかどうかではなく、それぞれが日々神様に心を向け、自分の生活を通して神様を礼拝することだと考えています。ただし、そのためにこそ、共に集まる礼拝の中で神様から栄養をもらい、互いのことを知り合い、支え合うことが不可欠なので、日曜日の礼拝が重要であることには変わりありません。

 でも、私はこのことで、神学校に入った直後に同級生の友人を泣かせてしまいました。後で分かったのですが、その人は、日曜日は教会にささげるものだと子どもの頃から教えられて育ってきて、そのことで自分自身が学校や職場でもある意味で闘ってきた人でした。だから、私が軽く「そんなのこだわらなくていいんじゃない」と言ったことが、ショックを与えてしまったのです。

 ユアチャーチにいると、皆さんも私と似たような経験をしたことがあるかもしれません。保守的な教会で教えられている習慣の多くを、ユアチャーチでは必要ないものとしているからです。私自身、ユアチャーチでなければ信仰を持っていなかったかもしれませんし、他の教会からユアチャーチに来て、保守的な教会の束縛から解放された方は多いと思うので、ユアチャーチの考え方は大切だと確信しています。

 それでも、私たちは今日のパウロの言葉に耳を傾ける必要があります。パウロは、信仰の弱い人が強い人にならなければいけないとは決して言っていません。信仰の強い人は弱い人を批判しても軽んじてもならないし、反対に、信仰の弱い人が強い人を裁いてもいけないと言っています。信仰生活に関して、それぞれに違う考え方があっていいのだということです。

 私はこの信仰の強い弱いという言い方が良くないと思います。実際に神様から見たらどうか分からないのに、誤解を生むと思います。なので、せめて、「保守派」と「リベラル派」と言い換えたらどうでしょうか。

 それでは先に進んでいきます。次に4節です。

2. 信仰は主が一人ひとりに与えてくださったもの (4)

4 他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主が、その人を立たせることがおできになるからです。

 神様は私たち一人ひとりを召し出して、信仰を与えてくださいました。、私たちの主人は神様ご自身です。この神様と私たち一人ひとりの一対一の関係には、他の誰も入ることはできませんし、入ってはいけません。

 リベラルな考え方をする者からすると、保守的な考え方をする人たちは間違っていると思えます。でも、その間違いを正すことができるのは、彼らの主人でもある神様であって、パウロの言い方に従えば、「(彼ら)が立つのも倒れるのも、(神様)次第」なのです。パウロはさらにこう言っています。「しかし、(彼ら)は立つでしょう。主が、その人を立たせることがおできになるからです。」

 このことは、例えば保守的なキリスト教一派が性的少数者を排除したり、中絶を禁止したりすることは間違いだと考える私たちとしては、戸惑いを感じるものです。そのような不正義を批判してもいけないということでしょうか?そうではないと思います。このローマ書14章が問題にしているのは信仰生活についてであって、福音そのものの解釈や聖書解釈ではありません。これが、もっと信仰の核心部分に触れる問題の場合は、パウロは激しく憤り、反対者たちを容赦なく批判します。たとえば割礼の問題がそうです。

 従って、私たちは、保守派とリベラル派で互いの意見を尊重すべき問題と、議論しなければいけない問題があるということを分けて考える必要があります。今日の箇所は、前者の、互いに尊重すべき問題についてしか語られていません。

 それでは後半に進んでいきましょう。後半も内容は似ています。5-6節を読みます。

B. 一人ひとりが神様のもの
1. 各自が「主のため」という確信を持って行動する (5-6)

5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。おのおの自分の考えに確信を持つべきです。6 特定の日を重んじる人は主のために重んじます。食べる人は主のために食べます。神に感謝しているからです。また、食べない人も主のために食べません。神に感謝しているからです。

 何を食べるか食べないかという議論に、ここでは特定の日を重んじるかそうでないかという問題が入ってきています。これも当時のユダヤ人と異邦人の間の見解の違いによる意見の対立と考えられますが、問題の本質は同じなので、詳しい説明は省略します。

 ここでパウロが言っていることで重要なのは、各自が「主のため」という確信を持って行動すべきだと言っていることです。そして、何をするにしてもしないにしても、他の誰かに強制されることなく、ただ神様に対する感謝を持って、自分で決めるべきだと言われています。他の人の意見を盲目的に信じるのではなく、一人ひとりが自分と神様の一対一の関係の中で、自分がどう行動すべきかを自分でよく考え、確かめることが大切だということです。これは、保守的な立場の人もリベラルな立場の人も同じです。今までそう教えられてきたからとか、牧師がそう言っているからとかではなく、一人ひとりが自分で考えて決めることが大切なのです。

 パウロは続く7−9節でさらに重要なことを言っています。

2. 自分のためではなく、主のために生き、主のために死ぬ (7-9)

7 私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。8 生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 この7−9節の言葉を、私たちは自分の心にいつも問いかけてみるべきだと思います。私は、この命が神様からいただいたものだということを忘れて、自分のために生きようとしたり、人生が自分の思い通りにならないことを嘆いていないか。私の命は神様が与えてくださったもので、神様が私を呼び戻す時は自分で選べないこと、でも、限られたこの時間は間違いなく神様が目的を持って私に与えてくださっているのだということを、忘れていないか。イエス様が死に、よみがえられたのは、私の体がある間もなくなった後も共に生きたいと願う神様の愛の意志だと、覚えているか。
 このことは、一見、今日の内容とは関係ないことのように思えます。でも、欠けの多い私たちが、互いに尊重しあい、同時に互いの不正義を正すのにためらわないためには、自分は自分自身のものでも他の誰かのものでもなく、主のものであるという認識が必要です。そして、保守であれリベラルであれ、神様の正義を求めると言いながら、自分の立場を正当化する方を優先していないか、そもそも神様の正義を見誤っていないか、自分自身を批判的に見ることが大切です。

 それでは最後の10-12節を読んでいきましょう。

C. 私たちは皆、神様の裁きの前に一人で立つ (10-12)

10 それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11 こう書いてあります。「主は言われる。『私は生きている。すべての膝は、私の前にかがみ/すべての舌は、神をほめたたえる』と。」12 それで、私たちは一人一人、自分のことについて神に申し開きすることになるのです。 

 繰り返しになりますが、信仰というのは、神様と私たち一人ひとりの一対一の関係です。でも、パウロの時代も今も、私たちは互いの信仰生活の違いをただ違いとして受け入れるよりも、自分の居心地のいいあり方が最も優れていると思い込んで、他の人々もそれに従うべきだと考えしまいます。自分の信仰に確信と誇りを持っていることは大切ですが、それによって他人の信仰を支配しようとするなら、その途端に、どんなに立派な信仰でも神様を悲しませるものになってしまいます。私たちは誰でも、神様の前に一人で立つのであり、自分の過ちを他の誰かのせいにすることも、他の誰かの代わりに立ってあげることもできません。私たちは一人ひとりがただ神様に対して誠実に生きることを目指し、自分のためではなく神様のために生かされていることを、忘れないようにしましょう。

(お祈り)神様、私たちはそれぞれ全く違う人生を歩んできて、全く異なる形であなたと出会い、他の教会で育ったものも、この教会で育ったものもいます。今この教会に集っていても、それぞれの信仰のあり方は様々で、考え方も少しずつ違います。どうか私たちが、互いの違いを受け入れ合い、互いから学び合うことができるように導いてください。そして同時に、それぞれがあなたとの一対一の関係を大切にできるように助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

イエスを自分の主と信じる信仰を共有していても、信仰生活のあり方は人それぞれで違うものです。私たちは一人ひとり、自分と神様の一対一の関係の中で、何が大切で何が大切でないのかをよく追求し、確信を持って行動することが期待されています。でも、自分が大切だと確信していることでも、他人にそれを強要することはできません。他人の信仰のあり方や行動を支配することは、その人と神様の関係の邪魔をすることになります。私たちは一人ひとりがただ神様に対して誠実に生き、自分のためではなく神様のために生かされていることを忘れないようにしましょう。

話し合いのために
  1. 「あの人は信仰が弱い」と思ったことはありますか?どんな人でしたか?
  2. なぜ私たちは互いの信仰に優劣(強弱)をつけてしまうのでしょうか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

同じイエス様を信じていても、私たちはみんな一人ひとり違います。人と比べて何かがとても上手だったり、反対に人よりうまくできないものがあったりします。でも、神様にとっては、たくさんできる人も、少ししかできない人も、一人ひとりが同じように大切な子どもです。人よりできるからいい気分になったり、人よりできないから落ち込んだりするよりも、自分が頑張れたことも頑張れなかったことも含めて、神様がそのまま私たちのことを喜んでいて愛してくださっていることを知ってください。