互いを受け入れることで生まれる喜びと平和と希望

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互いを受け入れることで生まれる喜びと平和と希望

ローマ 15:1-13

池田 真理


 

 8月に入りました。毎年、8月は日本人にとって戦争の過ちを思い起こす時ですが、今年は特に、ウクライナでの戦争が2月に始まり、戦争を終わらせることがいかに難しいか、平和がいかに脆いものかを知り、特別な思いを持って8月を迎えている方が多いと思います。また、昨日は広島の原爆記念日、明後日は長崎です。日本は唯一の被爆国でありながら核兵器禁止条約に参加せず、反対に、ロシアの脅威を口実に核共有の話まで出てきて、本当にもどかしく、憤りを感じている方も多いのではないでしょうか。私自身はそうです。だから、少し前から、8月は平和について改めて考えるメッセージをしたいと考えていたのですが、今日は順番通りローマ書15章を読むことにしました。この箇所は、ちょうど平和のヒントを教えてくれているからです。
 今日読んでいく15章1-13節は、この手紙の本論の最後の部分で、次回以降は結びの挨拶に入っていきます。本論の最後なので、この手紙全体の総まとめと言えます。いつも通り、少しずつ読んでいきます。まず1-2節です。

A. 互いに忍耐しよう
1. 強い者が弱い者に合わせる (1-2)

1 私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。2 おのおの、互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせるべきです。

  これは、前回までの内容の続きで、信仰の強い人は弱い人を批判せずに受け入れなさいということが言われています。ただ、今日の箇所はこの手紙のまとめに入っているので、前回までの内容の保守とリベラルの対立に限らず、もっと広い意味で社会の中の強者と弱者の関係について教えられていると解釈していいと思います。ここには、この手紙全体で教えられてきた、大切な大原則が繰り返されています。それは、強者が弱者に合わせるべきであり、弱者に強者になる努力を強制してはいけないということです。イエス様は、自らそのことを率先して実行された方でした。3節を読みます。

2. イエス様に倣って (3)

3 キリストもご自分を喜ばせようとはなさいませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、私にふりかかった」と書いてあるとおりです。

 イエス様は神様でありながら人としてこの世界に来られ、身分の高い人よりも低い人と共にいることを望まれ、偽善者を批判し、罪人を愛されました。そして、イエス様自身は正しい方であったのに、私たちの罪のために十字架にかけられました。それは、正しい人が悪人によって理不尽に苦しめられる、明らかな不正義でしたが、イエス様はそれを受け入れて、自分の正しさを証明するよりも、私たちを愛しておられることを証明してくださいました。
 私たちが平和を築いていくためにも、このイエス様の例に倣うことが大切です。それは、自分の正しさを証明することよりも、人を愛することを優先することです。そのためには、私たちは時に自分を守ることをやめて、人に誤解されたり、屈辱的な扱いを受けたりすることを、あえて受け入れる必要も出てくるかもしれません。
 ただ、これは不正義を容認して放置していいという意味ではありませんし、どんな屈辱にも黙って耐えるべきだという意味でもありません。このことはローマ12章の後半で「敵を愛する」ということについてお話しした時に詳しくお話ししたので、もし聞いていない方はぜひ教会のウェブサイトで見てみていただけると嬉しいです。
 4節に進みます。

3. 聖書から学んで (4)

4 これまでに書かれたことはすべて、私たちを教え導くためのものです。それで私たちは、聖書が与える忍耐と慰めによって、希望を持つことができるのです。

 3節に出てきた「あなたをそしる者のそしりが、私にふりかかった」という引用は、旧約聖書の詩編69篇に出てくる言葉です。元々は敵に追い詰められたダビデが、自分が不当に苦しめられることを嘆いて歌った詩ですが、やがて、ダビデ個人の体験にとどまらず、理不尽なことで苦しむ全ての人の歌となり、それがイエス様にも当てはめられて解釈されるようになりました。
 詩篇には、他にも、人々が苦しみの中で神様に助けを求め、時に神様に疑問を投げかけ、時に自分の過ちの赦しを乞う、率直な言葉が収められています。そして、神様が祈りにこたえてくださったことを感謝する歌もあれば、たとえ悪い状況が何も変わらなくても神様を信じる信仰を告白する歌もあります。
 聖書は、詩篇や旧約聖書に限らず、新約聖書も含めて、神様を信じて生きるとは具体的にどういうことかを教えてくれる本です。昔も今も、私たち人間は弱くて間違いを繰り返しても、神様の愛は変わらないことを教えてくれます。だから私たちは、聖書を通して、私たち人間の過ちの多さに絶望することなく、神様が私たちを見捨てていないことを確認し、忍耐して、希望を保つことができます。
 5−6節に進みます。

4. 神様を求める心を共有する (5-6)

5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6 心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。

 これは、ローマの人たちに向けたパウロの祈りの言葉ですが、時代を超えて、私たちに向けられた祈りでもあります。同じイエス・キリストを信じていても、それぞれが育った文化や生活習慣、それぞれの教会で教えられていることの違いが、クリスチャン同士の間で対立を生みます。ただ、ここでパウロが祈っているのは、全てのクリスチャンが全てのことにおいて同じ考え方をするようになってほしいということではありません。そうではなく、一人ひとりが自分が正しいという思い込みを捨てて、互いに歩み寄って互いを理解しようとする態度において、一致してほしいという祈りです。それは、イエス様に倣って、自分の正しさを証明することよりも人を愛することを優先することで、自分の名誉ではなく神様に栄光をもたらすことを求めることです。パウロがそれを祈っているように、私たちも神様に助けを求めて互いのために祈り合いましょう。

 それでは後半に入っていきます。まず7節です。

B. 互いを受け入れることで得るもの
1. 「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」 (7)

7 だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

 私は、この短い一文が、私たちが互いの違いを認め合って、争いを避けて平和な世界を作るための原則だと思います。イエス様が私たちの罪を赦してくださったように、私たちも互いに許し合い、愛し合うことです。それは、イエス様が全ての人のために十字架で自らの命を捧げられたように、私たちも誰かのために自分が傷つくことを恐れないこととも言えるかもしれません。
 このことは、あらゆる人間関係に当てはまります。ここで意図されている、教会内の人間関係はもちろん、友人同士でも夫婦間でも親子間でも当てはまります。また、前回までのテーマだったキリスト教の保守派とリベラル派の間にも言えますし、プロテスタントとカトリック、正教会の関係にも言えます。また、相手がキリスト教信仰を持っていなくても、イエス様は誰のことも受け入れておられるので、私たちの心構えは誰に対しても同じであるべきです。
 続きの8−12節を読んでいきます。

2. 異邦人が神様を信じるという驚きの展開 (8-12)

8 私は言う。キリストは神の真実を現すために、割礼のある者に仕える者となられました。それは、先祖たちと交わした約束を揺るぎないものとするためであり、9 異邦人が神をその憐れみのゆえに崇めるようになるためです。「そのゆえ、私は異邦人の間であなたに感謝し/御名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10 また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11 更に、「すべての異邦人よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ」と言われています。12 また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根が興り、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みを置く。」

 ユダヤ人と異邦人の対立の問題は、ローマ書全体を通して、特に9−11章で、取り上げられてきた問題です。この手紙を書き終えるにあたり、パウロはどうしても最後にもう一度このことに触れておきたかったのだと思います。当時のユダヤ人にとって、異邦人が自分たちと一緒に神様を信じるようになるということは驚きでした。でも、それは実は旧約聖書では至る所で預言されていたことで、神様の愛と憐れみは、最初から、人が思っていたよりもはるかに大きかったということが証明されたに過ぎません。9−11章で繰り返し強調されていたように、神様の選びというのは人間の予想をはるかに超えて、到底相応しくないと思われる者を選び、信仰のない心に信仰を起こさせます。
 私たちも、分かり合えない敵だと思っている人や、無意識に見下している人の中に、自分と同じように神様を求める人たちがいるかもしれないということを、知る必要があります。思いがけないところに、仲間がいるかもしれません。
 それでは最後の13節を読んでいきましょう。

3. 想像以上の喜びと平和と希望 (13)

13 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって、あなたがたを希望に満ちあふれさせてくださるように。

 このパウロの祈りは、今まさに内部対立の問題を抱えていたローマの教会の人たちに向けられた祈りです。お互いに相手に排除される不安を抱え、争いのある中で、イエスを信じる信仰によって喜びと平和が与えられるように、と祈られています。そして、互いに理解しあえる将来に向かって進むことができるように、聖霊様の助けによって、希望を持ち続けるように、と言われています。
 
 今日の箇所は、残念ながら、人間の悪や不正義を止める方法については教えてくれていません。一度始まってしまった戦争を止める方法は、ここには書いてありません。でも、今日の箇所は、被爆者の人たちが二度と自分たちと同じ悲惨な目に遭う人が出ないことを願って、核兵器廃絶と平和を目指して歩んできた道のりに、とても重なると思います。忘れてしまいたい記憶を世界に伝え、憎しみを乗り越えて、世界中に仲間を増やし、未来の世代のために生涯をかけてくれた人たちがいます。私たちはその人たちの働きを無駄にすることなく、自国の利益や安全保障よりも世界の平和と未来の世代のためにするべきことは何か、模索を続けなければいけないと思います。

(お祈り)この世界を造り、私たちの全てを知っておられる神様、どうか私たちに自分たちの過ちと弱さに向き合う謙虚さを与えてください。自分を正当化することよりも、他人を理解しようとする姿勢と、思いやりを持つことができるように助けてください。あなたが私たちを赦して受け入れてくださったように、私たちが互いに許し合い、受け入れ合うことができるように、あなたの霊を私たちに注いで導いてください。人間の悪が引き起こす不正義に対して、世界中で起こっている戦争や抑圧に対して、私たちが一致して抵抗していくことができるように助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

多様性が尊重される平和な社会を築くことは、私たち一人ひとりが個人のレベルで身近な人との違いを受け入れ、時に相手に誤解されることがあっても忍耐し、許し合うことから始まると思います。私たちはそのように私たちを受け入れてくださった神様、イエス・キリストを知っています。イエスは、人に見捨てられた人を見捨てず、選ばれるに値しない者を価値ある者として選ばれます。そのようなイエスの愛に倣って私たちが互いに受け入れ合うなら、たとえ現実の世界が平和でなくても、私たちの心には喜びと平和があり、見えない希望を信じることができます。

話し合いのために
  1. 「受け入れがたい(許しがたい)人」はいますか?
  2. 4節の「聖書が与える(教える)忍耐と慰め」とは何でしょうか?
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

人と違うことは間違いではないということを、話し合ってみてください。友達の中の「変わった子」や「困った子」、または自分自身が他の子と仲良くできない、自分は人とは違って寂しく感じることなど、聞いてみてください。そして、7節の「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」を一緒に考えてみてください。