教会:性別・身分・民族の壁を超えて助け合う共同体

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教会:性別・身分・民族の壁を超えて助け合う共同体

ローマ 16(ローマ書シリーズ最終回)
池田真理

 いよいよローマ書のシリーズも今日で最終回となりました。 今日は最後の16章全体を読んでいくのですが、とても長いので、一部は省略して読みます。 長い理由は、とても多くの人の名前が列挙されていているからです。全部で24人です。 これまでもお話ししてきた通り、パウロはまだローマに行ったことがなく、ローマの教会の大半の人々はパウロと面識がありませんでした。 だから、パウロは少しでも自分のことを信頼してもらえるように、知っている友人全員の名前を挙げたのかもしれません。

 私たちは、この名前のリストから、当時の教会がどのような人々の集まりだったのかを知ることができます。 それは、性別も身分も民族も関係なく助け合う共同体でした。 もちろん、それも完壁ではなかったので、パウロは各地に多くの手紙を送る必要があったのですが、時代や文化の価値観に囚われない、新しい人と人のつながりが創られ始められていたことは確かです。 特に、女性の活躍が目立っていました。
 今日は主に、この女性の活躍についてお話ししたいと思います。 最初に登場するのはフェべという女性です。 フェべはローマの教会の人ではなく、これからローマに派遣されようとしていた人です。 S 1−2節を読んでいきます。

A. 女性の活躍
1. フェベ (1-2)

1 ケンクレアイにある教会の奉仕者でもある、私たちの姉妹フェベを紹介します。2 どうか、聖なる者にふさわしく、主にあって彼女を迎え入れ、必要とする物があれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者であり、私自身の援助者でもありました。

 フェべは聖書の中でここにしか登場しないので、あまり情報がありません。 でも、ここから分かるのは、フェべはケンクレアイの教会の中心的人物で、パウロや他の多くの人の援助者であり、パウロはフェべをローマに送ろうとしているということです。 おそらくフェべは、信仰に篤く、経済的にも比較的豊かな人で、当時では珍しく、女性でありながら自分の自由に財産を使うことができたのだと推測できます。  もしかしたら、何かの商売をしていて、ローマにも行ったことがあり、パウロはこの人にこの手紙を託して、ローマの人々に届けてもらおうとしていたのではないかとも言われています。 そうであれば、挨拶の最初にこの人を紹介しているのにも納得ができます。 ただ、そうだとしたら、パウロの手紙を届けるという重要な役割を、当時の常識を破って、単身の女性であるフェべに任せているということが驚きです。  

 続く3節以降からが、ローマにいる人々への挨拶です。 その最初に名前を挙げられているのがプリスカとアキラという夫婦です。 3-5節前半を読みます。

2. プリスカ (3-5)

3 キリスト・イエスにあって私の協力者であるプリスカとアキラによろしく。4 命がけで私を守ってくれたこの二人に、私だけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。5 また、彼らの家の教会にもよろしく。

 この二人については使徒言行録18章に詳しく書かれており、他にも1コリントや2テモテにもその名前が登場します。 元々ローマに住んでいましたが、皇帝からユダヤ人追放の命令が出されて家を失い、一時的に滞在していた先でパウロと出会いました。 パウロと同じくテント造りを職業としていて、ユダヤ人でありながら異邦人にイエス様のことを伝えるためにパウロと苦楽を共にした同志でもありました。
 おもしろいのは、この夫婦の名前が挙げられる時はほぼいつもプリスカの名前が先に書かれているところです。 当時はもちろん、現代でもそうですが、夫婦は夫の名前が先に言われることが多いので、これは、何かしら、夫のアキラよりプリスカの方が目立っていたからかもしれません。.
 もう一つ、プリスカについておもしろいのは、使徒言行録ではプリスキラという愛称で呼ばれているところです。 プリスカが正式な名前で、プリスキラは、日本語で言えば「はなこ」を「はな」と呼んだり、英語で言えば「エリザベス」を「ベス」と呼んだりする感じだと思います。 それだけプリスカは多くの教会の人々に親しまれていたということが伺えます。

 次に注目したいのが7節に出てくるユニアです。7節を読みます。

3. ユニア (7)

7 私の同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアによろしく。この二人は使徒たちの間で評判がよく、私より前にキリストを信じる者となりました。 

 アンドロニコとユニアという名前は聖書中ここにしか出てこないので、彼らがどういう人だったのかは、ここに書いてあること以外は私たちには何も分かりません。 でも、この二人について、特にユニアについて重要なのは、キリスト教会が伝統的にこの人物のことをどのように解釈してきたかです。 H
 解釈の論点は2つあり、1つは「ユニア」は男性なのか女性なのかということと、もう一つは二人は使徒だったのかどうかということです。 新約聖書が元々書かれたギリシャ語は、日本語と同じように発音の違いによって意味が異なり、女性の「ユニアに(よろしく)」という意味なら「ユーニアン」、男性の「ユニアスに」という意味なら「ユニアーン」になります。 でも、古代ギリシャ語の書き言葉には発音記号がなく、書き言葉では発音の違いが分かりませんでした。 それでも、中世に入るまでは、これはユニアという女性名として定着していました。 それは、最近の研究で分かってきたことですが、古代ローマでユニアは女性の名前としてよくあったのに対して、ユニアスという男性の名前はなかったからです。 にもかかわらず、中世ヨーロッパの男性の神学者たちが「これはアンドロニコとユニアスという男性二人を指している」と解釈し始め、16世紀に宗教改革者ルターがその解釈を採用したので、ユニアはユニアスで男性であるという説が優勢になりました。 そして、日本語の新共同訳聖書でもここは「ユニアス」と訳されていました。
 なぜ、今となっては誤訳と思われる翻訳が中世以降広く定着したのかというと、女性が使徒であったはずがないという偏見によるのだと思います。 これはもう一つの論点である、二人は使徒だったのかどうかということに関係しています。 少しややこしいのですが、7節の後半、協会共同訳では「この二人は使徒たちの間で評判がよく」とありますが、NIVでは「この二人は使徒たちの中で目立っている」となっています。 つまり、協会共同訳は「この二人は使徒ではないが使徒たちによく知られている」という意味で解釈し、NIVは「この二人はよく知られた使徒である」という意味で解釈しているということです。 文法上はどちらにも解釈することは可能ですが、より自然なのはNIVの解釈、つまり、二人はよく知られた使徒であるという解釈です。 でも、それでは使徒たちの中に女性がいたということになるので、それはおかしいと考えた人々はユニアをユニアスと読み換えたり、またはユニアはユニアだけれども使徒ではないと解釈したりしています。 協会共同訳は、せっかくユニアスをユニアと修正したのに、彼女は使徒ではないと解釈していて、私には一歩進んで二歩下がったような印象です。
 このことについてもっと詳しくお知りになりたい方は、「ここが変わった!聖書協会共同訳」(日本キリスト教団出版局)の「ユニア」の章を読んでみてください。書いているのは男性研究者ですが、男性中心目線の伝統的な聖書解釈を分かりやすく批判していて、おもしろいです。

4. その他5人

 3-16節には、この他に5人の女性の名前があります。 6節のマリア、12節のトリファイナとトリフォサ、ペルシス、15節のユリアです。 いずれも詳しいことは何も分かりませんが、単身女性、姉妹、夫婦など、家族構成に関係なく、女性たちが教会の活動に加わっていたことが分かります。
 
 ここまでで、今日私がお話ししたかったことは半分終わりです。 いかに、初代の教会で女性たちが活躍していたか、またそれが現代に照らしてみても驚くほどに男性たちに認められていたかが分かります。 同時に、ユニアの解釈の歴史から分かるように、後の男性中心的価値観がいかに聖書解釈を歪めてきたかが分かります。

B. 奴隷も自由人も混在

 さて、この名前のリストから分かることは他にもあります。 名前の情報だけでは確実なことは言えないのですが、ある研究者によると、少なくとも24人のうち9人は当時の身分で言う奴隷か解放奴隷だそうです。 例えば、ヘロディオン(11節)はヘロデ家の奴隷を意味したり、ヘルメス(14節)は奴隷の名前として典型的だった、などから分かります。 反対に、家の教会を主催していたと考えられるプリスカとアキラ、フィロロゴとユリアの4人は、裕福な自由人であったと推測できます。大勢が集まれる広さのある家を持っていなければ、家の教会はできなかったからです。 つまり、当時の教会には奴隷も自由人も、貧しい人も富んでいる人も共に集まっていたということです。

C. ユダヤ人も異邦人も混在

 もう一つ、この名前のリストから分かるのは、ユダヤ人も異邦人も混在していて、おそらく異邦人の方が多かったということです。 プリスカとアキラは使徒言行録からユダヤ人であることが分かっています。 パウロが「私の同胞」と呼んでいるアンドロニコとユニア(7節)、ヘロディオン(11節)もユダヤ人であることが確実です。 他に、マリア(6節)や、「ルフォスとその母」(13節)もユダヤ人だったかもしれません。 他の名前は、研究者によれば、ローマ人やギリシャ人に多かった名前だそうです。

 このように、初代の教会は、民族や身分、性別の差を超えた共同体だったことが分かります。 それは、新約聖書の至るところで繰り返されている言葉をよく反映しています。

ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)

今日の箇所から分かるのは、初代の教会の人々は、人権や男女平等という概念すらなく、身分や貧富の格差が当たり前だった時代において、新しい価値観を身につけようとしていたことです。 彼らは、イエス様を求める信仰を共有することで、互いの違いも弱さも受け入れるべきなのだと気が付いたからです。 偏見や差別というのは目に見えず、差別される側は苦しくても、差別する側は差別していることにすら気が付いていないこともよくあります。 それでも、イエス様は、私たちの偏った価値観を変えさせて、互いに受け入れ合うことができるように結び合わせてくださる方です。

D. パウロは多くの人に支えられていた (21-23)

 今日の箇所から分かるもう一つのことは、パウロは孤独な伝道者ではなく、これだけ多くの人に支えられていたということです。それは21-23節からもさらによく分かります。

21 私の協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。22 主にあってこの手紙を筆記した私テルティオが、あなたがたに挨拶いたします。23 私と全教会との家主であるガイオが、よろしくとのことです。市の会計官エラストと兄弟クアルトが、よろしくと言っています。 一方で、「エルサレムの聖なる者たち」というのはエルサレムの教会の人たちという意味で、ユダヤ人が中心の教会でした。また、エルサレム教会は、そこから福音が伝えられた最初の教会として、各地の教会全体の指導的立場にもあり、特にユダヤ人クリスチャンにとっては精神的支柱となっていました。

ここに出てくる人たちについては、使徒言行録やパウロの他の手紙に登場する人もいれば、他には全く出てこない詳細不明の人もいます。 言わずと知れたテモテは置いておいて、出てきた順番に言うと、まず、ルキオについては確かな情報はありません。 ヤソンは、使徒言行録17章に記録があり、テサロニケでの家の教会の主人で、パウロをユダヤ人の攻撃から逃した人物だと思われます。 ソシパトロは、おそらく使徒言行録20章に出てくるソパトロと同一人物で、パウロの3回目の宣教旅行に同行した人です。 テルティオについては何も分かりません。 ガイオはおそらく1コリント1章でパウロが洗礼を授けたと言われている人で、コリントの家の教会の主人になった人です。 エラストは使徒言行録19章と2テモテ4章に出てきて、テモテと二人でパウロの代理人として派遣されたこともある人です。 最後のクアルトについては何も分かりません。
 私たちはつい、パウロやペテロなどの有名な人物に注目しがちです。 でも、今日の箇所全体から分かるのは、彼らの背後に数え切れないほど多くの人々がおり、彼らの働きを物心両面で支えていたということです。

 私たちは誰も一人では生きられませんし、一人で信仰を持ち続けられる人もいません。 イエス様が十字架で死なれたのは、私たちが互いの違いを認め合い、互いの弱さを受け入れて、助け合える関係を作れるようになるためです。 皆さんにはそういう関係の人たちがいるでしょうか? 私たちの人間関係は不安定で、壊れてしまうこともよくあり、人にはもう期待しない方がいいと諦めている方も多いかもしれません。 確かに、人には限界があります。 でも、イエス様は欠けの多い私たちが助け合えるように結び合わせてくださる方です。 ユアチャーチは、皆さんがそのような関係を期待できる共同体になれているでしょうか?

(お祈り)神様、どうか私たちが、自分のことにしても、他の人のことにしても、自分の常識や価値観に囚われずに、あなたがどう思われるかを、注意深く考えることができますように。 女性であること、男性であること、その両方であること、その両方でないこと、どんな性であっても、あなたに等しく愛されている一人の人間であることを一人ひとりが忘れることなく、誇りを持って生きることができますように。 どうか私たちがあなたの愛をもっとこの世界で実現することができますように。 主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

ローマの人々への手紙の最後には、他のパウロの手紙と比べて明らかに多い数の人の名前が列挙されています。その長いリストから分かるのは、教会の働きの中で多くの女性が活躍していたこと、奴隷も自由人も裕福な人も混在していたこと、ユダヤ人も異邦人も混在していたこと、そしてパウロは孤独な伝道者ではなく多くの人に支えられていたことです。イエス様を信じる信仰は、性別・身分・民族の壁を超えて私たちを結びつけ、互いに助け合うことができるようにさせてくださるのです。

話し合いのために
  1. 「ユニア」の解釈の変遷について、どう思いますか?
  2. ユアチャーチには性別・身分・民族による差別はありませんか?
子どもたち(保護者)のために

性差別や肌の色の違いによる差別、言葉の違いによる差別など、子どもたちは感じたことがあるでしょうか?女の子・男の子という枠で嫌な思いをしたことは?大人でも、誰でも無意識の偏見を持っています。一緒に話し合ってみてください