私たちは荒れ野で叫ぶ声

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私たちは荒れ野で叫ぶ声

ヨハネによる福音書 1:6-8, 19-23
池田真理

 前回、ヨハネによる福音書の一番最初の部分で、神様は言(ことば)であるということ、イエス様は神の言であるということ、が言われていました。今日は、私たちは「声」であるということをお話ししたいと思います。まず、前回飛ばして読んだ1:6-8節から読んでいきたいと思います。

A. ヨハネとは何者か (6-8)

6 一人の人が現れた。神から遣わされた者で、名をヨハネと言った。7 この人は証しのために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じる者となるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

1. イエス様に先立って神様に遣わされた者

 新約聖書には4つの福音書がありますが、このヨハネによる福音書も含め、4つ全ての福音書がイエス様に先立って現れた洗礼者ヨハネのことを記録しています。(ちなみに、聖書に「ヨハネ」という名前の人物はたくさん登場していて、この福音書の作者であるヨハネと洗礼者ヨハネは別の人物です。)その中でも、このヨハネによる福音書は、イエスとは何者だったのかということと並べて、洗礼者ヨハネとは何者だったのか、ということに、最初からとても注意を払っています。

 洗礼者ヨハネは、イエス様より半年前に生まれた人で、イエス様が活動を始める前に活動を始めました。彼は荒れ野に住み、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイによる福音書3:4)と言われています。そして、人々に罪からの悔い改めを呼びかけました。人々は、人里離れた荒れ野で禁欲的な生活をするヨハネに魅力を感じ、彼に教えを乞うようになりました。

 6−8節で、ヨハネは「神から遣わされた者」と言われています。そして、「光について証しをするために来た」と言われています。前回読んだように、光とはイエス様のことを指します。ヨハネは、イエス様のことを証しするために、神様から遣わされた人だったということです。「証しする」というのは少しわかりにくいですが、「イエス様は全ての人を照らす光である」ということを教えること、と言い換えてもいいと思います。

 ただ、注目したいのは8節です。「彼は光ではない」と言われています。ヨハネの働きは人々に注目されましたが、本当に注目されるべき方はヨハネが証ししたイエス様でした。ヨハネは、神様に遣わされた人でしたが神様ご自身ではなく、光について証しをしましたが光そのものではありませんでした。

2. 私たちが見倣うべき人

 私はいつも、洗礼者ヨハネの存在に疑問を感じていました。注目されるべきなのはイエス様であってヨハネは忘れられなければいけないのなら、どうせすぐにイエス様が活動を始めるのに、その前にヨハネが苦労をしなければいけない意味はどこにあるのか、よく分かりませんでした。
 でも、おそらく、ヨハネの存在の意味は、彼が私たち全てが見倣うべき人であるところにあります。ヨハネがイエス様に先立ってイエス様のことを証する人として神様に遣わされたように、私たちも皆、イエス様を知らない人のもとに神様に遣わされているからです。そして、神様は言葉ですが、言葉を人の耳に聞こえる声にするのは私たちの役割です。私たちの言葉に力はありませんが、神様の言葉には力があります。神様の声は耳に聞こえませんが、私たちの声は耳に聞こえます。ヨハネの存在の意味は、そのことを私たちに教えてくれるところにあると思います。彼の死後二千年以上にわたって、イエス様に先立って神様の言葉を声にして人に伝えるとはどういうことかを、私たちに教えてくれているのです。
 それでは、もっと具体的に、私たちは何者ではないのか、私たちは何者なのか、ヨハネから教えてもらいましょう。19-21節を読んでいきます。

B. 私たちは何ではないのか (19-21)

19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせたとき、20 彼は公言してはばからず、「私はメシアではない」と言った。21 彼らがまた、「では、何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「そうではない」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「違う」と答えた。

1. メシアではない

 「メシア」は元々ヘブライ語で「油注がれた者」という意味で、王や祭司を指し、救い主という意味も持つようになった言葉です。ギリシャ語では「キリスト」と訳されます。
 ヨハネも私たちも、王でも祭司でもなく、救い主でもありません。私たちは、たとえ人々に注目され、教えを乞われ、尊敬されるようになったとしても、どんなに真理を語っても、どんなに不思議な力を使うことができても、ただの人間です。人を救うことができるのは真の救い主、メシア、イエス・キリストだけです。

2. エリヤでもない (マラキ3:23)

 エリヤというのは旧約聖書に出てくる預言者の一人で、旧約聖書の一番最後のマラキ書3:23には「終わりの日にはエリヤがまた現れる」と書かれているので、ヨハネはエリヤなのではないかという噂がありました。ここでヨハネは自分はエリヤではないと否定していますが、他の福音書ではイエス様がヨハネはエリヤだと言っているところもあり、混乱します。これは、おそらく、一方でヨハネはエリヤの生まれ変わりではないという意味でエリヤではないけれども、他方でヨハネは預言されていたエリヤの役割を務めたという意味ではエリヤだったということで解決できます。
 私たちも、誰も、過去の偉大な預言者の生まれ変わりではありませんが、エリヤやヨハネと同じように預言者の役割を担っていると言えます。預言者の役割が何かは、この後22節以降でヨハネが教えてくれます。

3. 「あの預言者」でもない (申命記 18:15)

 その前に、ヨハネは最後に自分は「あの預言者」でもない、と否定しています。「あの預言者」というのは、旧約聖書の申命記18:15でモーセが語っている人物のことです。ちょっと読んでみましょう。

あなたの神、主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。 

C. 私たちは荒れ野で叫ぶ声 (22-23, イザヤ 40:3-8)

22 そこで、彼らは言った。「誰なのですか。私たちを遣わした人々に返事ができるようにしてください。あなたは自分を何者だと言うのですか。」23 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である。」

 ヨハネが引用したのは旧約聖書イザヤ書40章の言葉でした。イザヤ40:3-8を読んでみましょう。

3 呼びかける声がする。
「荒れ野に主の道を備えよ。
私たちの神のために、荒れ地に大路をまっすぐに通せ。
4 谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり、
起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。
5 こうして主の栄光が現れ、すべての肉なる者は共に見る。
主の口が語られたのである。」
6 「呼びかけよ」と言う声がする。
私は言った。「何と呼びかけたらよいのでしょうか。」
「すべての肉なる者は草、その栄えはみな野の花のようだ。
7  草は枯れ、花はしぼむ。主の風がその上に吹いたからだ。
まさしくこの民は草だ。
8  草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」

 荒れ野に道を作るためには、まずは岩や石ころなどの邪魔なものを取り除き、でこぼこなところをなるべく平らにしなければいけません。ヨハネは、私たちの仕事はそれだと言います。神様を忘れてしまった人たちに神様のことを思い起こさせ、それを妨げる様々な障害物を人々の心から取り除くことです。障害物は、虚しい快楽かもしれませんし、人から被った傷つきかもしれませんし、この世に対する絶望かもしれません。私たちは、そういうものを人の心から魔法のように消し去ることができるわけではありません。でも、それらは単なる障害物であり、この世界の全てではないと伝えることで、人を助けることができます。この世界には、確かに変わらないものがあり、永遠に残るものがあると、私たちは知っているからです。それは、「神様の言葉」です。

 イザヤは神様に「私は何と呼びかければいいのですか」と聞き、神様は「草は枯れ、花はしぼみ、人々は野の花のように過ぎ去っていくが、私の言葉は永遠に残る」と答えました。ヨハネが荒れ野で呼びかけたのもこれと同じでした。私たちが伝えるべきなのもこのことです。神様の言葉は取り消されることなく、必ず実行され、それはいつも良い意志であり、私たちを正しく導きます。でも、それ以上に、前回読んだように、神様の言葉はイエス様ご自身のことで、イエス様が十字架で教えてくださった神様の愛は永遠に変わらないということが、私たちを照らす光です。イエス様の十字架の愛が、私たちは荒れ野にいることを教え、同時に、荒れ野に広い道を作るために必要な力を与えてくれます。

 ヨハネは文字通り荒れ野で人々に呼びかけましたが、それは、私たちは時に人から離れた孤独の中に身を置かなければいけないこと、この世界の虚しさを知ったからこそ気付けることがあることを教えるためだったのではないかと思います。私たちも、寂しさや虚しさの中でこそ、イエス様の愛の本当の大きさを知ることができます。人間同士の不毛な争いの中でこそ、永遠に変わらない神様の愛の価値を知ることができます。そして、そのように人に伝えることができます。

 だから私たちは、ヨハネと同じく、荒れ野で叫ぶ声です。私たち自身の中には、永遠に変わらない愛も希望もなく、時に私たち自身も疲れて倒れてしまうこともあります。でも、イエス様の十字架には、それがあります。少なくとも私たちはそれを知らされて、信じると決めました。神様は、私たちが倒れるたびに新しい力を与え、神様の言葉を語る声になれるように、必要な人のところに遣わしてくださっています。自分の言葉ではなく、神様の言葉を、自分の力ではなく神様の力によって、届け続けていきましょう。

(お祈り)この世界を造られた神様、あなたは私たちが弱い者であること、間違いを犯す者であることを、私たち以上によくご存知です。それでも、あなたは私たちを励まし、あなたのご用を果たすために導いてくださいます。私たちが生きることの寂しさや虚しさを感じる時にこそ、永遠に変わらないあなたの愛を教えてください。あなたを見上げて進むことができるように、助けてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

ヨハネは、イエス様に先立って、人々に神様を信じる生き方があることを示しました。それは、虚しさや寂しさ、不毛なことが支配する荒れ野のようなこの世界の中で、そうではない神様の現実があることを人々に気付かせる働きでした。私たちもヨハネと同じ役割を持っています。神ではないけれども神によって遣わされ、光ではないけれども光を証しし、荒れ野で叫び続けることです。

話し合いのために
  1. 荒れ野でなければできないことは何でしょうか?
  2. 荒れ野でもできることは何でしょうか?
  3. 荒れ野で叫び続ける力がなくなったら、どうすればいいですか?
子どもたち(保護者)のために

荒れ野は砂漠とも言い換えることができ、草木が育たない、人の住めない土地です。ヨハネは人里を離れて荒れ野に住んでいました。でも、そんなヨハネのところに多くの人々が押し寄せたと言われています。それは、神様のことを忘れてしまった人々に、神様はいるということ、神様を信じて生きることができるということを、ヨハネが教えていたからです。でも、なぜヨハネは、村の中や町の中で活動しないで、荒れ野で活動したのでしょうか?絵本などを使って、一緒に話し合ってみてください。答えが出なくてもいいと思います。