喜びと平和の種を蒔こう

Edvard Munch, Public domain, via Wikimedia Commons

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日曜礼拝・英語通訳付

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喜びと平和の種を蒔こう

マタイ10:26-29
永原アンディ

 年末のある日、徹子の部屋に出ていたタモリさんが、来年はどんな年になるでしょうね?という徹子さんの問いに「新しい戦前になるんじゃないですかね?」と答えました。
 私は1955年生まれです。第二次世界大戦が終わった10年後です。今の若い人にとっては、戦争直後に感じられるかもしれませんが、私には全くそのような意識はありませんでした。ただ父母は戦時下に生き、特に父は広島で原爆に被爆し、本人は生き延びましたが、両親と家族のほとんどを失った経験をしています。
 タモリさんの言葉を聞いてわたしは思いました。「新しい戦前になるんじゃないですかね?」なんて言っている場合ではないのです。戦前になるとは、次に戦争が起こるということです。広島の慰霊碑に彫られた「二度と過ちは犯しません」という決意つまり「決して戦争しない」という決意は、この国ではすっかり忘れられているように思います。
 確かに、タモリさんがそう言う気持ちはわからないではありません。ロシアのウクライナへの侵略、北朝鮮の核ミサイル開発、中国の強大化などを見て、恐ろしい戦争に巻き込まれるのではないかと思うのも当然でしょう。
 イエスに従って歩みたいと思っている私たちは、今の社会をどう観たら良いのでしょうか?2023年を“戦前”にしないためにどう生きるべきなのでしょうか?
 年が明けた日、総理大臣は「日本は歴史の分岐点を迎えている」と言いましたが、私はこのままでは、さらに悪い方向に行ってしまうような気がします。  

 私たちは、このことを考えるためにイエスに聞くべきです。福音書に記されたイエスの言葉を聞きましょう。

 マタイによる福音書10:26-29を読みます。

26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。27 私が暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい。28 体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

1. イエスと弟子たちの置かれていた状況、そして私たちの置かれている状況

 イエスが地上で一人の人として生きたのは約2000年前のイスラエルです。 イスラエルはローマ帝国の支配下に置かれていました。福音書にも出てきますが、イスラエルにはローマに認められた王がおり、また宗教的な裁判所もありました。宗教的権威の最高位の大祭司がその長を兼ねていました。しかしその大祭司もローマから派遣された総督によって指名されていました。
 イエスと弟子たちの生きた時代は、今の日本が置かれている状況より遥かに過酷でした。ローマ皇帝を頂点とした複雑な権力構造に組み込まれた王族も宗教政治家たちの間でもさまざまな対立がありましたが、イエスは彼らにとって共通の敵となり、イエスと弟子たちはそのすべての人々に疎まれ、命を狙われていました。イエスが権力者たち、特に権力と結びつき、貧しい者や弱い者を蔑ろにしていた宗教的指導者たちを厳しく非難したからです。
 東ヨーロッパでは大国が公然と隣国に攻め入り、東アジアでは日本の周りの国々が着々と軍事力を蓄えています。そのような状況の中で、今の軍事予算では他国の侵略から国を守れないから、その他の予算を抑えて軍事予算をまず二倍にしたいと日本の政府は言い、人々ももっともだと考えはじめています。このままではやはり2023年は戦前になってしまいそうです。 国と国の間の力と力のぶつかり合いの果てに一瞬のうちに肉親の大半を失った私の父のような経験を誰にもさせたくありませんが、それは、軍事力をいくら強化しても防げません。それはかつてこの国が犯した失敗です。平和は軍事力の増強では守れないどころか、それは危険をますます大きくすることにしかなりません。
 ですから、私は皆さんや、皆さんの愛する人々、子どもたち、孫たちの誰をも戦場に送るくらいなら、この国が占領される方がましだと思っています。 イエスのいたユダヤ王国はローマに支配されていましたが、イエスは当時の民族主義者たちのように、そのこと自体を問題にはなさいませんでした。むしろイエスは、問題の本質はローマによる占領ではなく、権力者の堕落でも、宗教指導者の偽善でもなく、誰もが持っている心の在り方だと教えました。  つまり聖書が罪と呼ぶ人の性質のことです。この罪は独立した国であろうと、他国の占領下であろうと社会に悪い影響を与えます。それは特に、貧しい者、弱い者、少数者に対してより深刻です。すでに日本では人口の減少、少子化の進行、貧困層の増大が問題となっています。 防衛費以前に、これらの問題に対処しなければ、守るべき社会が壊れてしまいそうです。
それでも、イエスは「恐れるな」と私たちに呼びかけられます。なぜ恐れる必要がないのか、ここで何をすればいいのか、イエスの言葉に耳を傾けましょう。

2. 「恐れるな」と「恐れなさい」の意味

 日本語では「人々」を恐れるなとあります。それは英語訳のように「彼らを」です。宗教的に、政治的に、経済的に力を持っている人々、その中でも特に宗教指導者たちのことです。そしてイエスは、「彼らの偽善はやがて明らかになるのだから、恐れないで私の教えたことを大胆に言い広めなさい」と言われたのです。
 民衆は無責任です。大きな権力に公然と非難し、人々を癒すイエスをスーパーヒーローのように祭り上げましたが、イエスと共にいることが迫害や死に至る危険があることがわかると手のひらを返しました。イエスが十字架に架けられた時、弟子も含めて全ての人が “人々” を恐れてイエスを見捨てました。 しかしイエスは、そのような人の弱さによる裏切りを責めはしません。イエスの「恐れるな」は対抗して戦いなさいではないのです。そうではなく、誰が社会を支配していようと、あなたはイエスに教えられたなすべきことをしていきなさい、時間はかかるかもしれないけれど偽善は必ず明らかにされますから、諦めずに言うべきことを言いなさい、言い広めなさいということなのです。そしてイエスは続けて、彼らが恐れるに足りないことを次のような言葉で伝えています。

29体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな。(28)

この協会共同訳の日本語に疑問を感じませんか?今までの日本語訳はほとんど「命」ではなく魂と訳されてきました。原語は「息」を意味することばで、そこから「命」を意味するようになった言葉です。しかし日本語だと命は、体が生きている状態を強く思わせるので「魂」と訳してきたのだと思います。新しい訳があえて原語に近い「命」を採用した理由はわかりませんが、この「命」こそ私たちの存在の本質であって、それは肉体が滅びてもなくならないものなのです。つまり肉体の終わりは命の終わりではなく、人々がどんなに大きな力を持っていて私たちの肉体を滅ぼすことができても、「命」を奪うことはできないとイエスは言われるのです。

 この世では終わらない命とは何でしょう?聖書はそれを「永遠の命」と表現しています。この世の歩みを終えて後も「命」は神様と共に存在します。

この節の後半は「むしろ、命も体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」です。ある人々は「信じないと地獄に突き落とす恐ろしい神様」を想像しますが、それは間違いです。「神を恐れる」とは、私たちを創ったばかりか、私たちを愛するあまり、一人の人として、この世界に来てくださった神様といつまでも共にいられますよ、という慰めの言葉です。

3. 恐れずに自分の周りに喜びと平和の種を蒔こう

 週報を見るとわかるのですが、ユアチャーチは今年30周年を迎えます。岸田首相によると「日本は歴史の分岐点を迎えている」そうですが、私たちがすることは何も変わらないと思います。
 いまだに続いているコロナの感染拡大や去年起こった多くの恐ろしい出来事は、2023年にも大きな影響を与えるでしょう。経済にも政治にも外交にも自然環境にも、私たちに明るい喜びを与えてくれる要素は多くありません。それでも、私たちがイエスに従って歩んでいるのなら、私たちは状況がどうであっても何も恐れる必要はありません。
 教会の歩みも、その季節によって見える風景は変わっていきますが、イエスの根本的な指示は昨日も今日も明日も変わることはありません。それは「愛しなさい」です。私たちの毎年新たにする約束(カヴェナント)を覚えていますか?それは、「神様を愛し、互いに愛し合い、世界を愛します」です。取り巻く社会がどんなであっても、世界がどんなであっても、私たちがするべきこと、そしてできることはそれだけです。それは、自分の目の届くごく近い範囲で、喜びと平和の種を蒔くことになります。

(祈り)神様、私たちの歩みを今まで導いてきてくださりありがとうございます。
状況がどうであっても、愛し続けることを励ましてくださって、ここまで来ることができました。
どんな社会にあっても、あなたの愛を止めることはできません。
どうか、私たちが、あなたを顧みない人々を恐れるのでなく、彼らのコントロールする社会の中で、苦しむ者、悲しむ者と共に在って、そこに喜びと平和の種を蒔く者とさせてください。イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

多くの問題があって、先行き不安な世界ですが、神様は私たちユアチャーチをそこに遣わしました。ご自身の意思を行うためです。私たちはコロナ禍で色々な変化を経験しました。教会のかたちは時代や環境によって変わります。しかし、私たちのすることの本質はイエスが地上を歩まれていた時から何の変わりもありません。愛することによって、周りに希望と平和の種を蒔くことです。

話し合いのために
  1. 今一番不安なこと、心配なことは何ですか?

  2. なぜ私たちは恐れる必要がないのですか?

子どもたち(保護者)のために

子どもたち(保護者)のために

この一年がどのようなものになるか話し合いましょう。国際的なことというより、身近な家族や自分自身の抱負や、今不安に思っていることを聞いてください。そしてイエスの生きた時代の様子を伝え、イエスを信じて従っていく家族が恐れる必要のないこと、それより周りの人々を大切にして生きることを勧めてください。