独りでいることから共にいることへ、共にいることから人を癒す働きへ

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日曜礼拝・英語通訳付

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独りでいることから共にいることへ、共にいることから人を癒す働きへ」

ヘンリ・ナウエンの小論文による・ルカによる福音書6:12-26
ユアチャーチのメンバーシップ、カヴェナント(誓約)

池田真理


 

 今日はいつものヨハネ福音書のシリーズを離れて、教会のメンバーシップについてお話ししたいと思います。ユアチャーチでは、一度メンバーになったら自動的にずっとメンバーになるわけではなく、牧師を含めて全員が毎年どうするかを自分で決めることにしています。その具体的な方法は、三つの約束を守る誓約(カヴェナント)をするという方法を取っています。三つの約束とは、まず神様を愛すること、次に教会の中で互いに愛し合うこと、その次に教会の外に出ていって世界を愛すること、です。でも、このうちの二番目の「教会の中で互いに愛し合うこと」が、コロナの3年間によって希薄になってしまったと感じています。皆さんも多かれ少なかれそう感じているかもしれません。
 今日お話しすることは、私自身が迷い考えている中で、ヘンリ・ナウエンが1995年に書いた小論文に出会って、とても参考になると思ったので話すことにしたものです。 “Moving from Solitude to Community to Ministry” (LEADERSHIP magazine, Spring 1995)(「独りでいることから共にいることへ、共にいることから人を癒す働きへ」)という小論文です。ユアチャーチのメンバーかそうでないかに関係なく、皆さんの参考になれば嬉しいです。
 それでは、ナウエンに従って、今日はルカによる福音書6章を取り上げたいと思います。最初に12-19節全体を読みます。

12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15 マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

ここに、イエス様と私たちの活動の全ての進め方の順序が示されています。夜には独りで祈り、朝には仲間を集め、昼には人々を癒す働きをする、ということです。それでは最初に、独りで祈ることから考えていきましょう。

A. 独りでいること
1. 「あなたは私の愛する子」という声を聴く

 私たちはそれぞれ、独りで神様に祈るということなしには、何もできません。イエス様ですら、わざわざ一人になれる場所まで行って、祈って夜を明かされたとあります。なぜ独りで神様に祈ることが大切なのでしょうか?それは、そこで「あなたは私の愛する子」と語りかける方の声を聞くためです。祈るということは、私たちの抱えている様々な願いや悩みを打ち明けることですが、それ以上に、神様の声を聞くということです。置かれている状況がどんなであれ、私たちの状態がどんなであれ、神様の愛は変わらず、神様は私たちのことをご自分の子どもとして愛してくださっているということを、自分で確認するということです。
 ただ、イエス様は神様の声を直接聞くことができましたが、私たちはそうではありません。代わりに、私たちは、イエス様が私たちのために十字架で死なれたという事実を思い起こすことによって、神様の愛を確かめることができます。「神様なんていないのだ」と思うような状況においても、イエス様が私たちのために命を捧げてくださった事実は変わりません。だから、神様が私たちを愛しておられるということは、感覚的なことではなく、私たちが自覚的にそのことを繰り返し自分で確かめて、信じると決めることです。それは、他の人がそう言っているからではなく、本当にそれが事実なのか、自分独りで神様に向き合って考えるということが大切です。

2 . 「あなたは私を愛するか?」という問いに応える

 そして、私たちが独りになって聞かなければいけない神様の声はもう一つあります。「あなたは私を愛するか?」という問いかけです。
 十字架の死からよみがえられたイエス様は、ペトロにこう聞かれました。「あなたは私を愛しているか?あなたは私を愛しているか?あなたは本当に私を愛しているか?」3回も繰り返したのです。同じ質問を、イエス様は私たちにも尋ねられます。少し不思議なことですが、イエス様は私たちに愛してほしいと願っておられるということです。それは、神様にしては人間くさい、弱くて不安げな問いにも聞こえます。でも、それが神様が飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんになったということで、神様が十字架に架けられたということの意味です。神様は私たちのために弱くなられ、私たちの弱さを分かち合い、共に生きることを望んでくださったのです。「あなたは私を愛しているか?」このイエス様の問いに応えることが、私たちの進むべき方向を示し、私たちの生きる力になります。

 それでは次に、仲間を集め、仲間と共にいることについて考えましょう。

B. 共にいること
1. 神様の愛を映す

 なぜ、私たちは独りで神様を信じているだけではなく、同じ信仰を共にする仲間と一緒にいる必要があるのでしょうか?つまり、なぜ私たちは教会に属すべきなのでしょうか?そんな必要はないと考える人たちもいますが、この教会ではそれを大切なこととして考えています。なぜなら、私たちは弱いからです。私たちは、独りで神様を信じ続けられるほど強くありません。不安や悩みの中で、分からなくなってしまうのです。それは人間なら当然のことです。だから、私たちは目の前の状況がどうであれ神様に愛されていて、神様の愛は何も変わっていないということを、誰かの言葉と行動を通して思い起こさせてもらう必要があります。そうやって、私たちは互いに神様の愛を映し出す鏡になる必要があるのです。

 でも、ここで重要なのは、私たちは誰も決して完全な鏡にはなれず、誰も神様の代わりにはなれないということです。もし、他の誰かに神様に求めるべきものを期待していたら、私たちはいつも裏切られ、傷つくばかりになってしまいます。

2. 互いに許し合う

 最初に読んだルカによる福音書の箇所で、イエス様は十二人の使徒を選び出していました。その中には「後に裏切り者になったユダ」もいました。でも、イエス様を裏切ったのはユダだけではありません。他の十一人もみんな一人残らずイエス様を見捨てて逃げてしまいました。でも、イエス様は彼らのその弱さを最初から知っていて、その上で選んだのであり、最初から赦していました。

 私たちが神様の愛を互いに教え合うということは、このイエス様に倣って、互いの不完全さや弱さを許して受け入れ合うということです。それは、ナウエンの言葉を借りると、相手が神様ではないことを受け入れることです。 “Forgiveness is to allow the other person not to be God.” それは、私たちを愛してくれる人たちに対して、こう伝えることです。「あなたが私を愛してくれていると知っています。でも、あなたは私を無条件に愛する必要はありません。そんなことは人間には不可能ですから。」 そしてまた、私たちが愛したいと願っている大切な人たちに対しては、自分の愛の小ささを許してもらえるように請うことです。 自分が与えたいと願っている愛すら与えることができないと認めることは辛いですが、それが私たちの限界なのです。

 でも、その限界を認め合って許し合うところにこそ、人と人が共に生きる本当の共同体が生まれます。これは、教会に限ったことではなく、夫婦や親子や友人同士など、どんな人間関係においても同じです。そして、互いの弱さを受け入れて、互いの愛の小ささを許し合うことは、私たちが互いの存在を喜び合うということにつながります。

3. 互いの存在を喜ぶ

 私は、私の弱さや不完全さを知っても、変わらずにいてくれた友人たちの存在に、ずっと支えられてきました。その人たちは決して私の抱える問題を解決してくれたわけではありませんが、私の話を聞き、一緒に悩み、祈ってくれました。そのためには、「こんなことを言っても迷惑だし、呆れられて嫌われてしまうかもしれない」と思う気持ちを抑えて、勇気を出して話すことが必要でした。そして、残念ながら「話さなければよかった」と後悔したこともあります。でも、それは人間同士では仕方のないことで、思い切って話してよかったと思ったことの方がはるかに多くあります。また、私が人に「話さなければよかった」と思わせたことの方が何倍も多いと思います。そのことを考えると、もう何もできなくなってしまいそうです。でも、自分が受け取ってきた友人たちからの愛と、彼らを通して受け取ってきた神様の愛を思い返すと、自分もそれを他の人に伝えたいという願いが湧いてきます。

 皆さんには、自分の弱さをそのまま受け止めて、悩んでいる時に一緒に悩んでくれる人がいるでしょうか?その人自身にも弱さがあり、いつも願った通りの反応を返してくれるわけではなく、時には傷つけられることもあると思います。それでも、互いの存在を神様が与えてくれたプレゼントとして喜び合える人が、誰にでも必要だと思います。それが本当に共に生きるということで、私はユアチャーチでそんな関係が増えていってほしいと願っています。

  

 それでは、今日最後の三つ目のポイントに入っていきたいと思います。

C. 人を癒す働き
1. 神様を信頼する

 夜、独りで祈り、朝、共に生きる仲間を作ったイエス様が次にしたことは、人々のところに出て行って、人々を癒すことでした。私たちにも同じことが期待されています。私たちにはイエス様のように病気を癒やしたり、悪霊を追い出したりする力はないかもしれませんが、イエス様は私たちを通して人の心を癒そうとされています。でもそれは、私たちが何か今までとは違う特別な働きをすることではありません。イエス様について山を下った使徒たちは、そこで何をしたでしょうか?何もしませんでした。そこで起きていたのはただ、「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていた」ということだけです。使徒たちにできたのはせいぜい、押し寄せる群衆を落ち着かせて、「イエス様はちゃんとここにいるよ」と安心させてあげることくらいだったでしょう。私たちも同じです。私たちにできることは、イエス様を信頼して、イエス様がしてくださることに期待することです。

 

 それは、私たちは何もしないでいいという意味ではありません。私たちの役割は、自分がイエス様にしっかりついていって、人々に「イエス様はちゃんとここにいるよ」と伝えることです。それは、どんな状況においても、神様があなたを愛している事実は変わらないのだということを、言葉と行動で示し続けることです。たとえ、私たちには病気を癒すことができなくても、問題を解決することができなくても、イエス様を信頼して、全てのことに意味はあると信じて、希望を失わないで、共にいることです。

 イエス様は、人々を癒やし、こう語りかけました。続きの箇所の一部だけを読みます。

「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」

私たちが、この言葉は真実で必ず実現するのだと信じて、希望を失わないで行動し続けていくことが、他の人の力になります。

 そのように神様を信頼して人に力を与え、人の心を癒す働きを担うことは、「独りでいること」と「共にいること」なしにはできません。なぜなら、私たちは、人を助けたいと願う中で、繰り返し自分の無力さに気付かされるからです。また、自分は何の助けにもなれないと分かっている中で人と関わり続けることには勇気がいります。自分の無力さに直面するのが怖いからです。でも、「あなたは私の愛する子」と私たちに語りかける声は変わりません。また、不完全な人間でありながら、神様の愛を教えてくれた人たちの存在が、私たちを励まして導いてくれます。そして、苦しんでいる人の中には、「あなたは私を愛するか」と問いかけるイエス様の声を聞くことができます。だから、神様を信じて生きるということは、独りでいること、共にいること、人を癒す働きを担うこと、の三つ全てを大切にすることだと私は思っています。

2. 目に見える結果を求めない

「私たちの小さな命は、小さな人間の命に過ぎません。しかし、私たちを愛する子と呼んでくださる方にとっては、私たちは大きく、それぞれの人生の長さなどよりずっと大きいのです。私たちは実を結ぶでしょう。その実は、あなたも私も、この地上で生きている間には見られないものですが、信頼できる実です。」

(お祈り)神様、どうぞ一人ひとりの心に語りかけてください。あなたがおられること、愛してくださっていること、叫びを聞いておられること、分かるように教えてください。この教会が、もっとあなたの愛を表すことができますように。私たちがもっと互いの弱さを受け入れ、許し合って、あなたを共にたたえることができますように。私たちは無力ですが、あなたには力があるということを信じて、苦しむ人と共に苦しむ勇気を与えてください。自分にできないことを嘆くよりも、あなたがしてくださることに期待できるようにさせてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

(※このメッセージはヘンリ・ナウエンが1995年に書いた小論文「Moving from solitude to community to ministry」に基づいています。)ユアチャーチのメンバーは毎年三つの誓約をすることになっています。「①神様を愛すること ②互いに愛し合うこと ③世界を愛すること」これは、①独りでいること(神様に愛されていることを自分で確認し、神様を愛すると自分で決めること) ②共にいること(互いに不完全でありながら神様の愛を映す者として、互いに許し合い、互いの存在を喜ぶこと) ③人を癒す働きを担うこと(自分の無力さを自覚しながら、神様の癒しの力を信頼して、苦しんでいる人と共に苦しむこと)を意味しています。あなたもメンバーに加わって、一緒に神様の愛をもっと見つけていきませんか?

話し合いのために
  1. 3つのうち、あなたが足りないと思うものはありますか?どうしたら補えるでしょうか?
  2. ユアチャーチはあなたにとって②の役割を果たせていますか?あなたはユアチャーチで②の役割をどのように担いたいですか?
子どもたち(保護者)のために

教会は何をするところでしょうか?なぜ大人は教会というところに集まっているのでしょうか?子どもたちは何をしに教会に行くと思っているでしょうか?なぜそれぞれが心でイエス様を信じているだけではなく、同じようにイエス様を信じている人とつながるのが大切なのでしょうか?それぞれの家庭ではどのように伝えていますか?一緒に話してみてください。