נ (ヌン) 私の足の灯・道の光

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נ (ヌン) 私の足の灯・道の光

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 14/22
詩編119:105-112

永原アンディ


 

 律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ、14回目です。14回目の今日は、14番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット14番目の字、“נ (ヌン)”が各節の初めに置かれた105-112節を取り上げます。
 前回あたりから、少し詩の雰囲気が変わってきています。前回の部分では、それまでお馴染みだった助けを叫び求めるような言葉は全く出てきませんでした。今日の部分では、詩人は自分自身を客観的に見ているように思えます。そして、過去や現在を見ていたその視線は、未来に向けられているように感じられます。      
 読んでゆきましょう。

1. 神様の言葉は私たちの足の灯、道の光 (105, 106)

105 あなたの言葉 は私の足の灯
私の道の光。
106 私は誓いを立て、それを果たしました。
あなたの正しい裁き を守るためです。

 神様の言葉は、逆境にある私たちの心に平安を与えてくださるだけではなく、暗闇のような逆境の中でも前に向かって進んでゆけるように、自分の進む先を照らすライトです、と詩人は歌っています。大抵の人は何も見えない真っ暗闇なら、先を照らす光がなければ恐ろしくて前に進むことができないでしょう。目の前に危険があってもわからないからです。
 でも、本当に危ないのは見えているように思えてあまり見えていない夕暮れ時です。実際、大きな交通事故が起こりやすいのは真っ暗な時間帯よりも夕暮れ時なのです。最近の車は暗くなりはじめると自動的に前を照らしてくれるのですが、今でも夕暮れ時にライトをつけないままで走っている車を時々見かけます。

皆さんは、人生の歩みを「神様の言葉」というライトを頼って歩んでいるでしょうか?真っ暗闇には立ち竦んでしまう人でも、夕暮れ時なのに見えているつもりで「神様の言葉」というライトに頼らず人生をドライブしている人は多いのです。

 ただその事と、106節の「誓いを立て、それを守り、神様の正しい裁きに従う」ということにはどのような関係があるのでしょうか? 
 日本では、2年に一度の車検が義務付けられています。うちの車も最近車検を受けました。古い車なので色々問題が出てきているのですが、今回はライトの照らす向きがズレていたので修正しました、とガレージから報告がありました。車が車検から戻ってきた後、運転してみると確かに以前より前方がよく見えていました。少しずつのズレだったので気づかなかったのですが、安全の基準をパスできない状態になっていたわけです。

 神様の言葉で道を照らして前に進んでいるつもりでも、それが自身の歩む先を正確に照らしていなければ、神様の言葉に導かれて歩んでいることにはなりません。夕暮れ時を無灯火で走っているのは神様を知らない人だけではありません。
 神様の言葉を頼りに歩んできたはずなのに、いつのまにか、そのつもりでいるのに現実にはそうしてはいないということがクリスチャンにも起こるのです。106節は、そうならないためための秘訣です。私たちはこの106節にいつも立ち返ることで神様と共に歩み続けることができるのです。
 誓いというと大袈裟ですが「私はあなたの言葉で歩みたいです。離れやすい私の心を引き寄せてください。」という願いを何度でも言い表すということです。先週、カヴェナントのメッセージを聞きましたが、その願いを持つことは私たちの第一のカヴェナント「神様を愛します」の中心的な内容、礼拝を生活の第一優先とする、ということに他なりません。
 最近来てくださった方のために付け加えますが、私たちの言う「礼拝」とは日曜日の朝ここに集まって献げる、この礼拝だけを指すわけではありません。日曜日だけでなく、またどのような時間でも、また誰とでも、一人でも持つべき「神様と過ごす時」のことで、誰かと共に献げている状況の中でも、本質的には「自分と神様が一対一で向き合う」ときです。

2. 神様の言葉は私たちを生かす (107, 108)

107 私はひどく苦しんできました。
主よ、あなたの言葉 どおりに私を生かしてください。108 主よ、私の口が進んで献げる賛美をどうか受け入れ
あなたの裁き を教えてください。

 詩人は実際に生死を分けるような境遇に置かれていたのでしょう。
私たちのこの大きな家族の中にも、病や抱えている問題で苦しんでいる人がいることを覚えましょう。悩みは今のことばかりではありません。将来の展望に希望が持てない経験は誰にでもあったと思います。私たちの生かしてくださいという願いは、単に命を長らえることにはとどまりません。さまよい歩くような日々ではなく、神様と共に一歩一歩着実に人生を歩みたいという願いです。このことが叶うのも、前の部分でお話しした「礼拝」においてなのです。
 神様が、人間を神様のに姿として創造された時、その仕上げとして、土の塵で形作られた人の鼻に、命の息を吹き込まれました(創世記2:7)。呼吸の始まりの記述です。他の動物も呼吸をしますが、神様が自ら命の息を吹き込まれたとあるのは人間の場合だけのようです。
 以前に、聖書において「命」とは生命の維持された状態だけを指すわけではないとお話したように、それは神様との特別な交わりの開始でもあったのです。 この時以来、神様は私たちに霊的な息を吹き込んでくださっているのです。私たちはそれに応え、神様を讃える声を上げます。その声に応えて神様はまた私たちの心に語りかけてくださいます。
 礼拝は霊的な呼吸のようなものです。それなしに私たちは「命」を維持することはできません。神様の呼びかけに応えて、神様への愛と信頼を言い表し、ほめたたえ、願いを伝える。それが礼拝の核心だと私は語り続けてきました。

皆さんに、生活の中で第一優先のこととしてほしい礼拝は言葉をいただくだけという一方通行のものではありません。それに応えて、こちらからも思いを言い表し、そしてまたそれに応えて語りかけてくださる神様の言葉を聞く、神様と会話するような時です。コロナ禍で、ビジネスマンでなくてもZOOMで会議することが当たり前になり、ユアチャーチでも、誰もここには来ずに、それぞれの自宅からZOOMで礼拝を捧げていたこともありました。私たちは使いませんでしたが、ZOOMには全体で話し合うだけでなく一時的に、グループに分かれて話し合える機能がついています。そこで皆さんに想像していただきたいのですが、この日曜日の10時から11時半までの礼拝全体がひとつのZOOM会議だとしたら、その中でもメッセージの後のワーシップタイムはそれぞれが神様と二人だけで過ごす時です。人が多すぎて私と話すことはできないのではないかと心配しないでください。神様は同時に世界中の人、一人一人との親密な時を持つことができる方です。 これを神学的な言葉で言うとユビキタス・神様の偏在(Ubiquitous=Omnipresence)といいます。ワーシップは、みんなで、今日のメッセージにちなんだ歌をきれいに歌って過ごす時ではありません。周りの人のことはあまり気にせず、神様と二人だけの時だと思って過ごしてください。

3. 神様の言葉は永遠の喜び (109-112)

 この世界に生きている限り、私たちを騙し不正な利益を得るために、あるいはライバル視して蹴落とすために罠を仕掛ける者は存在します。そして多くの場合、罠はカモフラージュされています。エヴァとアダムにとって善悪の知識の実は食べるのによく、目には美しく、食べれば賢くなれるということも好ましく思えて、彼らは神様の警告を忘れて口にしました。

 人間は創造以来全く変わることなく同じ性質を持ち続けています。それが聖書の教える『罪』です。騙し合い、奪い合い、傷つけ合い、殺し合うことをやめられません。 私たちは自分の中のこの性質を消してしまうことはできません。しかし、この性質に支配されることなく歩むことは可能です。その方法を109,110節から考えましょう。

109 私は常に危険にさらされています。
しかし、あなたの律法 を忘れませんでした。
110 悪しき者どもが私に罠を仕掛けました。
しかし、あなたの諭し から迷い出ませんでした。

 つまりそれは、神様の言葉を忘れないこと、そこから迷いでないことです。そのために私たちには神様と過ごす時が欠かせないのです。また、自分と同じように神様に従って歩むことを願う人々と過ごす時が必要です。 誰も神様と付き合う方法を最初から知っていたわけではありません。皆、自分より先に神様と良い関係を築いている人々の歩みを見てそれに倣ったのです。

 皆さん一人一人が神様の言葉というランプを携えて歩むことは、自分が人生を安全に歩めるということだけに留まりません。ランプを持たずに歩んでいる人に、危険を知らせ、ランプを持って歩む幸いを伝えることができるのです。最初にイエスと出会い、イエスに従った人々を見て、ある人が神様の言葉に導かれて歩むようになり、その連鎖が2000年後の今、私たちにまで届いているのです。私たちは詩人と共にこのことを喜びます。

111 とこしえにあなたの定め を受け継ぎます。
それは私の心の喜びです。
112 私はあなたの掟 を行うことに心を傾けます
とこしえに、終わりまで。

 お話ししてきたように、神様の言葉は私たちの存在の保証であるばかりでなく行動の指針です。しかし、イエスに従って生きることは画一的な人生を意味するわけではありません。神様は人々に画一的なライフスタイルを要求しません。たどる道筋は他の人と全く異なっていていいのです。しかし、他人と同じでなくてもいいということは気楽な面もありますが、一人一人が真剣に神様の言葉を聞こうとすることを求められているということでもあるのです。

 旧約聖書のお話なので、今日はイエス・キリストは出てこなかったなあ、と思った人がいたら、それは誤解です。神様の言葉、戒め、諭しを最も体現しているのがイエス・キリストです。ヨハネは彼の福音書の最初の章で、イエス・キリストこそ肉となった神様の言葉であり、私たちにとってまことの光であると紹介しています。神様の言葉に従うとは、イエスに従って歩むことに他なりません。
 今年のイースターは4月9日で、4年ぶりに野外礼拝があります。その前の46日間はレント(四旬節・受難節)と呼ばれています。レントは、イエスの苦難と十字架、復活が私たちの心の中心にあることを再確認する期間として大切にされてきました。わたしたちには、いつの間にか、イエスを心の中心から片隅に追いやり、代わりに自分が中心にいるということが起こるのです。それがライトなしで人生を歩んでいる状態です。イースターまで後一月、イエスを心の中心にお迎えして、この時を過ごしてゆきましょう。

(祈り)

 神様、私たちの命を守り、私たちの歩みを導いていてくださることをありがとうございます。
 イエスとなって世界に来られ、私たち一人一人に親しく語りかけてくださることをありがとうございます。
 暗闇や嵐の中でも、あなたの導きがあり、守られて歩むことができます。
この喜びを知らない人が私たちの歩みを見てあなたのことを知ることができますように。
 知らず知らずのうちにあなたから遠ざかろうとしている人が危険に気付きあなたのもとに立ち返ることができますように。
 苦しいところを通りながらもあなたを信頼して歩を進めようとしているものに慰めと力をくださいますように。
 イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

神様の言葉は私たちの存在の保証であるばかりでなく行動の指針です。しかし、イエスに従って生きることは画一的な人生を意味するわけではありません。神様は人々に画一的なライフスタイルを要求しません。しかし、他人と同じでなくてもいいということは気楽な面もありますが、一人一人が真剣に神様の言葉を聞こうとすることを求められているということでもあるのです。

話し合いのために
  1. 自分の道を選んだ(または危機を克服した)経験を神の言葉で分かち合いましょう。
  2. 神の言葉通り生きるとは? 
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

子供達にとっては、神の言葉に導かれて生きるというのは抽象的で理解できにくいと思います。保護者にとって自分のこととして伝えられる、「話し合いのために」の①のような経験を話してあげてください。