ס(サメク) 二心

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ס(サメク) 二心

シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 15/22
詩編119:113-120

永原アンディ


律法への賛歌と呼ばれる詩編119編のシリーズ、15回目です。15回目の今日は、15番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット15番目の字、“ס(サメク)”が各節の初めに置かれた113-120節を取り上げます。読んでゆきましょう。

1. 二心 (113, 114)

113 二心ある者どもを私は憎み
あなたの律法 を愛します。
114 あなたは私の隠れ場、私の盾。
あなたの言葉 を待ち望みます。

 最初に出てきた「二心」が今日のお話全体のテーマです。「二心」と訳されたヘブル語は、旧約聖書でたった一箇所、ここにしか出てこない言葉です。また、それに相当するギリシャ語もヤコブの手紙(1:8, 4:8)に2回出てくるだけです。しかし「二心」は人間の誰もが持つ罪の性質の一部といえる普遍的なものです。 それは、神様を慕う思いと、神様に背を向ける思いが心の中に同居しているということです。

 詩人は「二心ある者を憎み、律法を愛します」と言っていますが、「二心ある者」と「神様の教えを守る者」という二種類の人間がいるわけではありません。クリスチャンは他者に対して「信者と未信者」とか「罪人と正しい人」とか「救われている人と救われていない人」という二分法を使いがちです。しかしそれは神様の判断ではなく自分の判断による乱用であることが多いのです。 「二心」もまた他人を裁く言葉としてではなく、自分自身を反省する言葉として受け取るべきです。「二心ある者」でない人間は一人もいません。例外は、人となった神・イエスだけです。神様の思いを優先させる思いがあるにもかかわらず、それに反して自分の欲望を優先させてしまうのが「二心の自分」なのです。
しかし、そのような自分にがっかりすることは悪いことではありません。少なくとも、私たちの心の中に神様を慕う思いが生きていて、正反対の思いとの葛藤に苦しむのは魂が健康な証拠です。二心を持つ自分であっても神様の言葉を愛していないことにはなりません。  
 問題は、どうしたら「二心の者」である自分が、愛するイエスと共に歩めるのか?どうしたら離れていくことなく、むしろもっと近付くことができるのか?なのです。

2. 神に失望させようとする罠 (115)

115 悪をなす者らよ、私から離れよ。
私はわが神の戒め に従います。

 私たちの多くは、詩人のように実際に悪意を持つ誰かからの攻撃にさらされているわけではないでしょう。しかし敵は自分の内にある二心でもあるのです。私たちに対する最大の脅威は、むしろこの内なる敵なのです。周りに悪をなすものが見当たらなかったとしたら、そのような状態こそ、私たちが油断して、神様から遠ざける罠に一番かかりやすい時かもしれません。神様に守られ、支えられてこの時まで歩んできたという事実を、人間は簡単に忘れてしまうことができます。神様の恵みを空気のように、あって当たり前のものと思ってしまいます。

 悪魔はイエスを誘惑し、悪魔に屈服することによってこの世の支配者になることを勧めました。しかしイエスは神様に背いて眼に見える権力を得ようとは思いませんでした。処刑されるという、この世界においては最も権力に離れた存在として十字架にかけられ苦しまれたのです。

イエスご自身は「神様と富との両方に仕えることはできない」と言われ、この世の権威や富を拒まれました。かし教会はどうだったでしょうか?歴史は教会が富や権力に結びついてきたことをはっきりと記録しています。旧約聖書で神様が民に繁栄を与えた例を用いて、信仰と繁栄は結び付けられてきました。しかしそれは神と富との両方に仕えようとする「二心」です。神様に仕えていると言いながら別のものにも仕えていることは、神様を全く信じないことよりも神様を悲しませています。

 私たちには、自身のその傾向を消すことができませんが、知らず知らずのうちに罠にかかってしまわないように気をつけることはできます。詩人はここで、そのやり方を教えてくれています。彼は、敵に「離れ去れ」と命じました。そして「私は神の戒めに従う」と宣言しました。実は悪魔に誘惑されたイエスも全く同じ方法で悪魔を退かせています。

さらに、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、9 言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝みただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイ4:8-10)

 私たちも詩人やイエスに倣って、自分の心に対してこう命じ、宣言することができます。

3. 神様に支えられていなければ立つことができません (116, 117)

116 私が生きていけるようにあなたの仰せ に従って私を支えてください。
自分の望みについて私が恥じ入ることがないようにしてください。
117 私を支えてください 私が救われ
常にあなたの掟 を見つめることができるように。

 悪を為そうとする者に、「離れ去れ」と命じ、「私は神様に従う」と宣言した後で、詩人がしたことは神様に願うことでした。詩人は力強く宣言をしたものの、それが自分の力でできるものではないことをよく知っていました。私たちも神様に支えられていなければ立っていることのできない存在であることを知るべきです。
 詩人は私を支えてくださいと神様に繰り返し頼んでいます。神様が支えてくださらなければ、私の希望は失望に終わるかもしれない。それどころか、自分の心を神様の言葉にフォーカスし続けることさえ難しいと感じているのです。

 使徒パウロは「希望」についてローマの信徒への手紙にこう記しています。

このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:1-5)

 この文章の中心は「私たちの希望は失望に終わることがない」ということなのですが、パウロはその直後に、希望が失望に終わらないのは「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」からだと書いています。パウロもまた詩人と同じように自分の無力を知っていたのです。

私たちが自分の無力を知るときに、自分に注がれる神様の愛を実感することができるのです。自分の弱さを認めなければ、神様の大きな愛を実感することができず、自分の力や他のものを頼ろうとしてしまいます。

4. 正しく神を畏れる (118-120)

111 とこしえにあなたの定め を受け継ぎます。
それは私の心の喜びです。
112 私はあなたの掟 を行うことに心を傾けます
とこしえに、終わりまで。118 あなたの掟から迷い出る者らを あなたはことごとく拒みました。
彼らの考えることは偽りだからです。
119 あなたはこの地の悪しき者どもをことごとく
滓(かす)として取り除きました。
それゆえ、あなたの定めを愛します。
120 あなたを恐れて身は震えます。
あなたの裁きを畏れ敬います。

詩人は、悪き者らによる苦しみの中にあっても、神様は決してそれを見逃すことはないと確信していました。悪は栄えることがあっても、それが永遠に続くことはないということは歴史が教えていてくれます。しかし、今日考えてきたように、敵が自分の心のうちにもあるとすれば、神様は私たちのうちなる悪をも容赦しないということになります。詩人はその神様の怒りが向けられても当然の悪が自分の内にあることを知っていました。
 
 皆さんは、自分が神様の怒りに触れて、地から取り除かれるかもしれないと思ったことがありますか?宗教改革者マルティン・ルターも、意外なことにその恐怖に苦しんだ人です。彼の伝記を読んだことがあるでしょうか?

 彼は法律家になるつもりで、今風に言えば17才で大学に入学して教養学で修士号を得て、21歳で法律大学院に進学したのですが、その学びを始める前
に一旦実家に帰省していました。そして、彼は実家から大学に戻ろうと道を歩いていたときに雷雨に遭遇し、あまりの怖さに、聖アンナ(母マリアの母)に「命が守られたら修道士になります」と誓ってしまいます。   
 そして今度はその誓いを守らなかったらどうなるかという恐怖に、両親の大反対を押し切ってロースクールではなく修道院に入ってしまいました。彼は熱心な修道生活を送りながら神学を学び、順調に司祭にもなり、聖書学の教授となっても、自分が正しく生きなければ神様は自分を罰するかもしれないという恐れに、心からの平安を得られていなかったのです。
 彼に転機が訪れたのは、宗教改革を起こす5年くらい前、先に読んだ「ローマの信徒への手紙」の講義を準備していたときのことです。ルターは、パウロの言う「神様の義(正しさ)」のとらえかたを自分が誤解してきたことに気づき、初めて心の平安を得たのです。もう一度先ほどのローマの信徒への手紙5章1,2節を読んでみましょう。

このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 ポイントは「(すでに)信仰によって義とされている/キリストによって神との間に平和を得ている!」という点です。「神の義」とは、イエス・キリストとして来てくださった神様からの「恵み」であって、決して人間に実行を求め、基準に達しなければ罰するというものではないということです。
 以前のルターは、正しい神様は人間にも義しく生きることを求め、それに応えられない人間は罰を受けなければならず、自分もどんなに善行に励んでも完全ではないので神様を満足させることはできないと思い込み、罰を恐れ、心の平安を持てなかったのです。
 しかしローマの信徒への手紙を読み返すことによって彼の理解は次のように変えられました。神は義(ただ)しい方だけれども、人間が完全でなく罪人であるほかないことを知っていいます。神様はそのような私たちを憐れんで、自身の義しさをイエスキリストとして来られるという方法で、人間にプレゼントしてくださいました。私たち人間は、ただそれを受け取ればいい、それを受け取ることこそ信仰なのです。

 私たちは神様を罰を与える者としてこわがる必要は全くありません。神様が私たちの行いを理由に私たちを罰することは決してありません。私たちは神様の罰を怖がるのではなく、イエスが導いていてくださることを、何よりも有難いこととして大切に思い、イエスと共に歩む人生を喜び、イエスが愛するように人々を愛することにトライし続けましょう。それが神様を畏れるということです。十分でなくても、失敗してもイエスは決して咎めません。

(祈り)神様、あなたの正しさに相応しくない私たちを正しい者と認めてくださり、共に歩んでいてくださることをありがとうございます。

私たちは自分の心の内にあって、あなたに背を向ける思いを憎みます。そしてあなたの言葉を待ち望みます。どうぞ、私たちの歩みを導いてください。

あなたの支えなしに歩み続けることはできません。あなたの霊で私たちを満たして、あなたを悲しませる思いを自由にさせないでください。

あなたの恵みを感謝して、イエスキリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちの心の中には神様を慕い求める気持ちと、神様に背を向ける気持ちが同居しています。それは私たちの一貫しない態度や行動に現れます。二心のない人はイエス以外には一人もいません。私たちは、この心の分裂を自分で克服することはできませんが、神様は私たちの願いに応えて私たちを支え、守り導いてくださいます。

話し合いのために
  1. 二心とは何ですか?
  2. 正しく神様を畏れるとは? 
子供たちのために(保護者の皆さんのために)

大人は子どもたちの二心を責めますが、大人も自身の二心をコントロールすることができません。心の中に相矛盾する思いがあることを子どもたちに気付いてもらいましょう。した方が良いのにしたくない、といった心の中の葛藤を例示して話し合ってみてください。そして、その矛盾の核心が“「神様を慕う」ことと「神様に背を向ける」”ことだと伝えてください。神様を慕うことは神様を中心とすること、神様に背を向けるとは自分を中心とすることです。 しかし、このことについて自分で行う道徳的なアプローチは無力で、大人も苦しんでいるということを正直に伝えてください。そして、この心の分裂から私たちを救い、支えてくださるイエスに頼ることを勧めてください。