ר(レシュ) 生かしてください

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ר(レシュ) 生かしてください

詩編119:153-160
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 20/22

永原アンディ


 詩編119篇のシリーズ、20回目の今日は、20番目の段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット20番目の字、“ר(レシュ)”が各節の初めに置かれた153-160節を取り上げます。
 この字は頭(ヘブライ語: ראש roš)を描いた文字に由来します。 今日のテキストの特徴は「〜にふさわしく(のとおりに)生かしてください」という願いが繰り返されていることです。先週はヨハネの福音書のイエスとサマリアの女との会話を通して、私たちの魂を生かす命の水について考えました。
 今日も、詩人の願いを聞きながら、私たちに与えられている命の水によって生かされていることについて考えてゆきましょう。
 今日も少しづつ読んでいきます。まず153、154節です。

1. 神様に生かされる私たち (153,154)

153 私の苦しみを見て助け出してください。
私はあなたの律法を忘れたことはありません。
154 私に代わって争い、私を贖いあなたの仰せのとおりに私を生かしてください。

 

154節に最初の「私を生かしてください」が登場します。ここでは”あなたが約束してくださったとおりに”とあります。直前の153節には前回と同様、「助け」を求める叫びがあり、それが彼の命の危機を物語っています。
「あなたの言葉を大切にしている私が、あなたの言葉を無視する人々からひどい苦しみを受けているのです。助けてください!」という叫びです。詩人はそのような情況のもとであっても、神様の約束が破られないことを信じ、生かしてくださいと願っています。
 「あなたを生かす」という約束は、旧約時代の人々にも、新約の時代の人々にも、現代の私たちにも与えられている神様の約束です。約束は将来への希望です。まだ見えない現実です。私たちは新約聖書の語り手からもこう教えられています。

信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。(ヘブル 11:1)

 私たちは皆、簡単ではない現実を生きています。信仰を持つ者と持たない者の違いは、この約束を信じて生きるのかどうかなのです。どうして私たちはこの約束が信じるに値すると胸を張っていうことができるのでしょうか?

 その根拠が154節の前半の「私に代わって争い、私を贖ってください」という言葉です。「贖う」は、私たちの日常会話では使うことのない言葉ですが、私たちと神様との関係の”正常化”のための重要な概念です。それは旧約聖書の時代の人々にとっては、特殊な言葉ではありませんでした。 それは人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すことや、身代金を払って奴隷を自由にすることを意味していました。

 「贖い」に似た言葉で「償い」という言葉がありますが、その大きな違いは、「償い」が自分の過ちを自分で代償を払って精算することであるのに対して、「贖い」は、自分では払いきれない代償を誰かが代わりに払うことによってなされるという点です。神様の約束とはこの「贖い」の約束です。

 確かに私たちの心臓は鼓動し、息をしているという意味では生きています。しかし、私たちは生きることの意味をそこだけに認めているわけではありません。  私たちが時々「自分は、生きているのに死んでいるようだ」と思うのはなぜでしょう?それは自分が、自分らしく生きてはいないと感じるからでしょう。「自分らしい生き方をしたいと願っても、そのとおりにはならない」という私たちは自分にはどうすることもできない重荷を抱えています。

 それはどれほどの富を築いても、人に賞賛されるような地位にあっても変わることはありません。

 

 イエスは十字架に架けられ苦しみの内に息絶えましたが、それが神様の意思であることを知っていたので、避けようと思えば避けることのできた十字架の苦しみを甘受されたのです。

 弟子たちは、大きな罪の力のもとに奴隷の状態に置かれ、逃れられない人間を解放するために、イエスが十字架にかかられ、死に至るまで苦しみ、3日目に復活されたことを「贖い」と信じたのです。

 彼らが、イエスを主と信じるように宣べ伝え始めたのは、イエスを主と信じ生きるなら、それで人は罪の力から自由にされて、神様が与えた命を取り戻すことができると知ったからです。イエスの与える命の水で生かされるとは、私たちが喜ばしい本当の自分になれること、新しく生かされることです。しかし、それは何かを獲得することによって得られる自己実現といったものではないのです。繰り返しますが、多くのものを手に入れても、自分らしい生き方は獲得できません。自分では得られないから、贖われなければならない事柄なのです。私たちは、生きているのではなく、生かされているのです。

2. 悪しき者とは誰か? (155-158)

155 悪しき者には救いは遠い。
あなたの掟を求めないからです。
156 主よ、あなたの憐れみは深い。
あなたの裁きにふさわしく私を生かしてください。
157 私に迫り来る者、苦しめる者は多いが
私はあなたの定めから離れません。
158 欺く者を見ると、胸が痛みました。
彼らはあなたの仰せを守りませんでした。

 ここには「あなたの裁きにふさわしく、私を生かしてください」とあります。 神様の裁きとはどのようなものなのでしょうか?裁きとは、物事を判断し、それに相応しい報いを与えることです。神様の裁きとは、神様の目からみた人の善悪の判断です。
 155節で、詩人は神様の善悪の基準が、神様の掟を求めるかどうかであると理解しています。詩人自身は、何があっても神様の基準で物事を判断したいと考えています。

それでは、詩編191篇の全編を通して詩人を苦しめている者として登場している人々はどのような者なのでしょうか?158節を見ると彼らがどのような者であるかがわかります。それは聖書の神様を知らない外敵なのではなく、神様を信じているはずの同胞です。神様の仰せを知らないのではなく、知っているのに守らない人とあるからです。ですから、155節にあるように、彼らは救いの外にいるのではなく、救われるべき者であるのに掟を求めようとしないので救いから遠いのです。

 イエスがこの世界にこられ、神様の救いについての理解が大きく変わりました。 いや、むしろ変わったというより、創世記の最初の2章で示されている神様の元々の意思に立ち返ったのです。イエスの弟子たちは、イエスの言動によって、神様はイスラエルの民族神ではなく、世界中のすべての人を救う神様であることを確信して、ユダヤ人以外の民にもイエスを紹介し始めました。
 今、主イエスは、あらゆる民族に伝えられています。しかし、神様の裁きの基準が変わったわけではありません。神様はその人が何教徒であるかどうかで人を判断し報いを与える方ではないのです。キリスト教徒であることが私たちの正しさを保証し、それに相応しい報いを与えられるわけではありません。詩人が言っているように、ただ神様の掟を追求する者であるかどうかが問われるのです。
そしてその報いは来世がどうかというようなことではありません。以前にヨハネによる福音書の話で聞いたように「信じない者すでには裁かれている」、つまり、神様と繋がっていないという大きな報いを受けているということです。それは、生かされていることを知らないということです。生かされているということの自覚は、置かれている環境に関わらず平安と満足をもたらします。
 イエスを信じたことは、与えられた新しい命の出発点にすぎません。その体の一部となって働き始めたのです。それは、神様の掟を愛し、追求し続ける歩みです。本当に生かされているという実感はそこからしか来ないのです。
 もし、私は信じてバプテスマを受けキリスト教徒になりました、ということで満足して、その後の歩みの中で、神様の掟を追求して生きなければ、「悪しき者」として誰かを苦しめる側に立ってしまうかもしれません。

3.  あなたの慈しみにふさわしく (159-160)

159 私がいかにあなたの諭しを愛しているか見てください。
主よ、あなたの慈しみにふさわしく私を生かしてください。
160 あなたの言葉の一切が真実です。
あなたの正しい裁きはすべて、とこしえに続きます。

 この最後の2節では「あなたの慈しみにふさわしく私を生かしてください」と書かれています。慈しみは愛や恵みとも訳される言葉です。これこそが、神様が私たちを生き生きと生かしてくださる根本的な動機です。
 イエスによって表された神様の愛は無条件の愛です。すべての人を例外なく愛していてくださいます。しかしその差し伸べられた手を握り返すか、拒絶するかを選ぶのは私たちです。イエスは強制されません。強制すればそれはもはや愛ではなくなるのです。
 そこで今日最初の部分でお話しした「贖う」という言葉にもう一度注意を向けたいと思います。教会の中で「罪の贖い」と表現することが多いのですが、「罪」をただ人間の行動やその人の性質を指す言葉として考えると問題の本質を見失うことになります。それは福音書の中でイエスが厳しく批判した律法学者、ファリサイ派の態度です。それは、キリスト教社会の中で人種差別、女性差別、性的マイノリティー差別として残されていますが、それらは決して神様の意思ではありません。人が神様や聖書の権威を借りて自分の考えを正当化しているに過ぎません。
 神様が嫌われるのは、人によって決めつけられた「罪人」ではありません。むしろ、神様の怒りは、神様に耳を貸さず、自分の意思を通そうとする態度、とりわけ、自分の意思を神の意思と偽って、人を罪人呼ばわりする者に向けられます。神様は決して人が私たちに貼り付けるレッテルで私たちを裁く方ではありません。  
むしろ、そのような攻撃にあっても神様の約束を信じて生ようとする者を祝福されます。
 罪とは、すべての人の持つ神様に背を向ける性質、自己中心性です。神様の差し伸べられた手を握り返すとは、この自分の罪の性質を認め「あなたの慈しみによって、私を生かしてください」と告白することです。
 イエスは、イエスに従って歩みたいと願い、差し出された彼の手を握り返した人を失望させることはありません。イエスに従いたいという思いを与えられた人はどうぞ牧師やリーダーたちに伝えてください。バプテスマを受け、イエスとイエスを愛する人々とともに新しい命を歩み始めてください。

(祈り)神様、あなたとともに生きる者とされていることを感謝します。どうぞ私たちがあなたの望まれる生き方ができるように導いてください。あなたが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うことのできる者としてください。この教会があなたの体の一部として与えられている役割を担っていくことができるように助けてください。あなたに感謝して、期待して、イエスキリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

神様は、私たちを生かすために一人の人イエスとしてこの世界で生きて命の道を示されました。それは詩編の詩人の生かしてくださいという願いへの神様の応えです。私たちには自分で生きる力はありません。神様に生かされている者です。そのことを認め、神様の意志を知ろうとすること、知って従おうとすることが、神様の与える永遠の命を生きることになるのです。

話し合いのために
  1. 私たちが神様に贖われたとはどういうことですか?
  2. 罪とは何ですか?
子どもたち(保護者)のために

人はが肉体的な意味でも、自分で生きているのではなく、神様に生かされているということを、考えさせてください。心臓は自分の意思とは関係なく動いています。呼吸はしなければ苦しくなるので、意識せず続けます。体を成長させてくれるのも神様です。
この人間を創ったのは神様です。神様は、この世界をよく管理するようにと、人間を自分と似せて創られました。世界にはいろいろ困った問題が起こります。それは神様の考えを大切にしないで、自分の考えで自分勝手に生きるからです。どうしたら、戦争がなくなるか、貧困がなくなるか話し合ってみましょう。