見ないで信じること

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日曜礼拝・英語通訳付

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見ないで信じること

ヨハネによる福音書 4:43-54

池田真理


 今日もヨハネによる福音書の続きで、4:43−54を読んでいきます。今日の箇所は、私たちが神様を信じるとは、神様が何かをしてくださったから信じるということではないと教えています。信仰とは、どんな時でも、目に見える現実が良くても悪くても、神様は必ず良い方向に導いてくださると信頼することです。早速読んでいきましょう。二つに分けて読みたいと思います。まず43−45節です。

A. 見えるものを求める人々 (43-45, 2:23-25)

43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。44 イエスご自身は、「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」と証言されたことがある。45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、その時エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。

 この部分は、学者によって解釈が分かれるところです。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というイエス様の言葉が紹介された直後に、ガリラヤの人々、つまりイエス様の故郷の人々はイエス様を歓迎したとあり、これをどう解釈するべきか、大きく3つの意見があります。一つは、ガリラヤの人たちの歓迎はイエス様の予想に反していたという意味だという解釈。もう一つは、預言者が自分の故郷で敬われないというのは、イエス様がエルサレムで歓迎されなかったという意味だという解釈です。私はこの二つの解釈は前後の文脈から考えて無理があると思います。だから三つ目の解釈に賛成しています。三つ目の解釈は、ガリラヤの人たちがイエス様を歓迎したというのは表面的で一時的なもので、イエス様は彼らの心を見抜いていたのだという解釈です。ガリラヤの人たちがイエス様を歓迎したのは、イエス様がエルサレムでしたことを見聞きしていたからだとありますが、これはヨハネによる福音書2:23-25の記録のことだと考えられます。ちょっと読んでみましょう。

過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(2:23-25)

多くの人がイエス様を信じたと言っても、それは本当の信仰ではないことをイエス様は知っていたということです。それから、この先の4:48にはイエス様がこう言ったとあります。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」イエス様は、ガリラヤの人々が自分のことを歓迎したのは、イエス様が超自然的な力で病気を癒したり悪霊を追放したりするのを期待していたからだと分かっていたということです。
 ここに、人間なら誰でも陥る間違いがあります。私たちは病気が治ることや問題が解決することを神様に願い求めますが、それ自体は何も間違っていないのですが、神様は私たちの願いを叶えるためだけに存在しているわけではありません。私たちの願いが叶わなくても神様は神様であり、信頼に足る方です。そのことを忘れてしまうと、私たちは自分に都合よく神様を利用するだけになってしまいます。それは信仰ではありません。私たちが心から神様のことを喜んでいるのか、それとも神様からの見返りを求めて神様を喜んでいるふりをしているだけなのか、神様にはすぐ伝わってしまいます。
 ただ、それでも、神様はそんな私たちのことも決して見放さないことを、今日の箇所は教えてくれていると思います。残りの46-54節全てを読みたいと思います。

B. 見ないで信じることが信仰 (46-54)

46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子を癒してくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。48 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。49 王の役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。51 ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。52 そこで、息子が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「昨日の午後一時に熱が下がりました」と言った。53 それが、イエスが「あなたの息子は生きている」と言われたのと同じ時刻であったことを、父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。54 これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、第二のしるしである。

1. イエス様は「見なくても信じるか」と問いかける 

 この部分は、自分の息子の病気を癒してほしいという父親の願いを、イエス様が一度拒絶しているように読めます。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」から。これは確かに、イエス様はこの父親を試していたのかもしれません。「あなたもただ私に息子の病気を癒してほしいだけで、私を信頼しているわけではないのだろう」と。でも、その後で父親があきらめずに訴えると、イエス様はこう言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」これは、父親の求めたこととは少しずれています。父親はイエス様に一緒に自分の家に来て息子を癒してくださいと頼みましたが、イエス様はただ「あなたの息子は生きている」と言葉で伝えただけでした。これは、イエス様が「あなたは私の言葉を信じるか?見なくても信じるか?」と問いかけているのだと思います。
 これは、私たちにも時に問われる問いだと思います。イエス様に助けを求めている状況の中、何も状況が変わっていなくても、イエス様を信頼することです。

2. 助けを求める私たちをイエス様は決して無視しない

 ただ、私たちのイエス様への信頼というのは、イエス様が本当に自分を助けてくださったという経験を積み重ねることによって増していくものでもあります。さらに言えば、困難な状況の中で、イエス様を疑ったり、信仰が分からなくなったりするのは当然のことで、そのような不信の中でこそ信頼は強められていくものとも言えます。だから、イエス様への信頼と疑いはいつも私たちの心の中に同居していて、それをイエス様も知っています。イエス様は、私たちが疑いながらも信じたいと願っていることを喜ばれ、私たちの願いを聞いてくださいます。

 49節で、この父親は「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」とイエス様に言ったとあります。ここで使われている「子供」という言葉は、原語では前後に使われている「息子」という言葉よりもくだけた表現で、父親の愛情が込められている言葉です。「息子の病気を癒していただけませんか?」という丁寧な言葉ではなく、「あなたが癒してくださらなければ、あの子は死んでしまうのです!だからどうか来てください」という切実な思いが込められていたのだと思います。でも、この父親はイエス様を信頼していたと言えるでしょうか?それよりも、イエス様の超自然的な癒しの力を求めていただけだと言えるのではないでしょうか?それでも、イエス様は彼を無視しないで、叫びに応えました。

 イエス様のことを完全に信頼しているわけではなくても、助けを求める人の叫びをイエス様は決して無視しません。私たちがイエス様のことを信じようと信じまいと、イエス様は私たちを憐れみ、愛してくださっている方なのです。

3. たとえ願いが叶わなくても、イエス様の愛は変わらない

 さて、今日の箇所は、父親の願いは叶えられ、イエス様の言葉通りに息子の病気は治って、そのことで一家全員がイエス様を信じるようになったという結末で終わります。このような奇跡は現代でも起こります。現代医療で治療が難しいとされる病気であっても、神様は癒しの奇跡を起こすことができます。そして、それによって癒やされた本人だけでなく、その人を愛する人全てに喜びをもたらしてくださいます。私たちはそのことを期待して、この教会の中でも、また、それぞれの家族や友人の中でも、自分のために、また大切な人のために、病気の癒しを願って祈り続けることができます。
 でも、私たちは、たとえそのような奇跡が起こらなくても、神様の愛は何も変わらないということを忘れてはいけません。今日のお話で病気を癒やされた子供も、イエス様に病気を癒やされた他の人々も、誰でもいずれは死を迎えました。イエス様の超自然的な病気の癒しは、イエス様が私たちに与えてくださる愛の一部に過ぎません。
 イエス様の愛は、イエス様の十字架で示された愛です。それは、私たちの代わりに苦しむ愛であり、私たちと共に苦しむ愛です。イエス様に超自然的な力だけを求めてついていく人たちは、イエス様が罪人として逮捕され、十字架で惨めな姿をさらしたら、幻滅するでしょう。でも、そこに、私たちの代わりに、そして私たちと共に苦しむ神様の姿を見るなら、その悲惨な十字架のイエス様こそが私たちの救いだと分かります。イエス様は、私たちの代わりに神様に見捨てられるという絶望と恐怖を味わい、私たちには永遠に神様と共に生きる希望と喜びを与えてくださいました。だから、私たちは、たとえ病気が癒やされなくても、自分にはどうしようもない状況の中を生きなければいけなくても、神様に見捨てられていることは絶対にありません。そのような状況の中に、十字架のイエス様は共におられるからです。
 最後に、ヘブライ人への手紙の11章の一部を読んで終わりにしたいと思います。ヘブライ人への手紙11章1節と13節です。日本語は新共同訳で読みます。

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。(ヘブライ11:13)

私たちは皆、神様から命を与えられて、限りある時間をこの世界で過ごし、いずれは神様の元に戻って行きます。目に見える現実だけに心を奪われず、目に見えない神様の良い計画がどんな時でも私たちを導いてくださっていることを信じましょう。

(お祈り)主イエス様、今病気と闘っている私たちの大切な人たちに、その心と体に、あなたが力と癒しを与えてください。医療を用いて病気を治してください。医療的に難しいと言われても、あなたが奇跡を起こしてくださることを願います。苦しい治療と闘病生活の中で、どうかあなたをそばに感じられますように。生活の不安や将来への不安、家族への心配、あなたへの疑問、どうかあなたが一つ一つ具体的に応えてください。そして、病気だけでなく、様々な問題を抱える私たちの心に、どうぞ語りかけてください。考えるべきこと、するべきこと、あなたが何を望まれているのか、一人ひとりを導いてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは、自分の抱える問題を神様が超自然的な方法で解決してくださることを求めて、それが起こらないと神様を疑ってしまうことがあります。でも、信仰とは、見ないで信じることです。目の前の状況が何も変わらなくても、神様は必ず良い方向に導いてくださるのだと信じることが信仰です。超自然的なことが起きても起きなくても、願った通りの結果になってもならなくても、神様の私たちに対する愛は何も変わりません。

話し合いのために

1. 神様が祈りに応えてくださった経験をシェアしてください。

2. 神様が祈りに応えてくださらなくて辛い時、どうすればいいですか?

子どもたち(保護者)のために

このストーリーを読んで、この父親の気持ちや信仰について一緒に考えてみてください。彼はイエス様に「うちに来て、息子を癒してください」とお願いしたのに、イエス様は「帰りなさい。あなたの息子は生きている」と言葉で告げただけでした。父親は「いや、一緒に来てください」とは言わず、イエス様の言葉だけを信じて、家に帰りました。イエス様を信じるということは、まだ何も起こる前から、イエス様は必ず良いことをしてくださると信じるということです。「これを叶えてくれたら信じる」というのでは、イエス様を自分の都合のために利用しているだけで、イエス様を信じることにはなりません。イエス様という方が信頼に足る方だと知っていくことが、私たちの信仰の歩みとも言えます。