ת (タウ) 信頼して待ち続ける

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ת (タウ) 信頼して待ち続ける

詩編119:169-176
シリーズ “律法への賛歌<詩編119編>から福音を発見する” 22/22

永原アンディ


119篇のシリーズ最終回、段落の各行の初めにヘブライ語のアルファベット22番目、最後の字、“ת(タウ)”が各節の初めに置かれた169-176節を取り上げます。私たちは、13ヶ月かけてこの詩編191編を8節ずつ読んできました。まだイエスを知らない時代の詩からイエスの福音を見出す試みでしたが、皆さんの中でイエスの福音を理解する助けになったでしょうか?

 創造の始めから世界の終わりの時まで、神様はさまざまな形で語りかけてくださいます。イエスが世界に来られる前から、そのことは預言され、神様の意思は預言者や詩人を通して伝えられました。
イエスが世界に来られ、約3年間という短い宣教の時期と、それから今に至るイエスの体である教会の時は、この世界の全歴史にくらべればごく短い期間です。私たちは、その中で数十年、長くても100年を過ごすにすぎません。しかし、神様はそのような小さな存在である私たちを慈しみ、時間、空間の制約を超えて神様と共に永遠に存在する者として下さいました。
 このシリーズ、詩編119編の最終回として、私たちのこれからの歩みに必要な姿勢を確認してゆきましょう。

1. 叫びと願いを聞かれる主(169,170)

169 主よ、私の叫びをあなたの前に近づけてください。
あなたの言葉に従って悟らせてください。
170 私の願いがあなたの前に届きますように。
あなたの仰せのとおり、私を救い出してください。

 ずいぶん持って回った言い方に聞こえませんか?「私の叫び、私の願いを聞いて下さい」というような直接的な言い方ではありません。
 詩人は自身の感覚としては、神様がかなり遠くにおられる、自分ではとても近づけないほどの断絶を感じていたようです。声や願いを届けたいと思っても自分ではそれができない。それをしてくださるのは神様しかいないという理解です。それは、苦境にあろうと順境にあろうと、正直な自己理解です。人は自分で罪の泥沼から這い出すことはできません。
 イエスが批判した「律法主義」は、まさに自分の正しい行いによって、神様の前に正しい者として立とうとという試みでした。しかしそれは、誰にもできないことです。神様からの語りかけに自分たちの解釈を加えて言い伝えられたルールは、たとえ守れたとしても神様に正しいと認められるものではありません。
 もっと悪いことには、本人の意思に関わらずさまざまな理由でそれを守れない者が「罪人」とされていたことです。福音書の中に出てくる当時の宗教家たちは、イエスが彼らに罪人と呼ばれた人々と付き合ったり、罪人たちの宴会に出席したり、また彼らに「あなたの罪は赦された」と宣言するなどの行為をするのを見て、イエスを自分たちの築き上げた「律法主義」による民の支配のシステムに対する破壊者と見做して恐れ、憎んだのです。

 この叫び、願いに対する神様からの究極的な答えが、一人の人イエスとしてこの世界に来られたことでした。そしてただ、この人となられた神様を主と信じてついてゆくことによる救いを提供してくださったのです。イエスの十字架は、私たちが何をしても償いきれない罪という負債のために神様ご自身が支払われた大きな犠牲です。イエスの招きは、私たちの叫び、願いに対する神様の応えです。悟りも、救いもイエスに従って歩み始めることで実現するのです。そしてイエスに従ってゆく歩みの中心に礼拝があります。次の部分でそのことを確認することができます。

2. 主の言葉とその正しさを喜び歌おう (171,172)

171 私の唇から賛美が溢れます
あなたはその掟を教えてくださいます。
172 私の舌はあなたの仰せを歌います。
あなたの戒めはすべて正しい。

 この部分は訳によって幅があります。この協会共同訳では賛美と歌が詩人の口から実際に湧き上がっているようにも取れる表現ですが、他の訳では「あなたがその掟を教えて下さいますから、賛美が溢れるでしょう。あなたの戒めは正しいので、私の舌はあなたの仰せを歌うでしょう」という、まだ叶わない期待ともよむことができるのです。このことは私たちの捧げる礼拝を考える上で大切な示唆を与えてくれます。主とともに歩み始めた人の心には、 主の言葉とその正しさを喜び讃える歌が溢れ出してきます。また、あなたとあなたの言葉を愛します、という愛の歌や、信仰を告白する歌も湧き上がってくるでしょう。それらは私たちの捧げる礼拝の中心的な要素です。 しかし主と共に歩みはじめると、さまざまな悩みもやってきます。私たちは、そのような時も喜んでいるふりをして楽しそうに歌うべきなのでしょうか?
 私たちが礼拝として歌う歌は、神様を賛美する歌ばかりではありません。むしろ、願いや叫びといった内容の方が多いかもしれません。そこに私たちが“賛美”という語を慎重に扱うべき理由があります。神様は私たちが自分を偽った状態でその前に立つことを喜ばれないと思います。
 私たちがどんな状態に置かれていたとしても、神様は賛美を受けるべきお方であることは間違いありません。けれども私たちの心の状態は変化します。それが日曜日の皆で共に捧げる礼拝ならその時の一人ひとりの状態も違っています。ときには、自分の心の状態とは全くフィットしない内容の歌が歌われていると感じるかもしれません。そのときに思うべきことは、それがここにいる誰かにとってまさに今歌われるべき歌なのだろうと想像することです。あるいは、それはまた、このユアチャーチという共同体の必要のために選ばれている歌なのかもしれません。さらには、自分の感情には合っていないかもしれないけれど、自分の魂に必要なものなのかもしれないと思ってみることです。

 私たちは重層的な存在です。共にいてくださる神様を喜んでいるのに、神様に相応しいとは到底思えない状態の自分がいる。神様がいるから大丈夫と思っていたはずなのに些細なことから大きな不安に襲われる。そのように矛盾だらけで、無価値と感じられる私たちでも、神様の前に立ち、礼拝することに招かれています。この世に置かれている限り、ここで主を讃え、愛し、願い、叫び続けましょう。

3.  諭しを選び、救いを慕おう (173,174)

173 あなたの手が私の助けとなりますように。
私はあなたの諭しを選びました。
174 主よ、あなたの救いを慕います。
あなたの律法は私の喜びです。

 神様と共に歩むことは、対価を払って可能になることではありません。また、私たちはそれに相応しい対価を払えるような者でもありません。そのような勘違いの現れの一つが「律法主義」です。それは、現代のキリスト教にも巧妙に入り込んでいます。

 この社会では、何かを得るためには相当する対価を払わなければならないので、私たちはその感覚を信仰の中にも持ち込んでしまいがちなのです。神様のくださる恵みは、日曜日の礼拝の出席率とか献金額とか教会活動への貢献の度合いで大きくなったり小さくなったりするのではありません。また何万人が集うメガチャーチでも数人が集う家の教会でも、神様はその祝福に格付けをなさったりはなさいません。

 神様は、その存在を認めない者の上にも日を昇らせ、四季を与え、季節ごとの収穫を与えます。しかし神様と共に歩む、生きるという恵みに関しては、私たちにが選択することが任されています。神様はこの恵みを押し売りする方ではないのです。

 詩人は、神様の諭しを選び、救いを慕うと言っています。神様の恵みを知りながら、一度その選択をしながら神様と共に歩むことをやめてしまう人も少なくありません。ある人々が言うように、神様は背を向けることに対して報復するような方ではありません。誰に対しても十分な恵みを注いでくださる方です。

 しかし神様に背を向けている人は十分な恵みを受け取ることはできません。神様の恵みによって生きようと思うなら、しっかりと神様を注視して、大きく手を広げましょう。それは、心を神様に向け、語り掛けられることを注意深く聞き、大胆に求めるような心の状態を持つということです。

4.  失われた羊のようにさまよう私たち (175-176)

175 私の魂が生きてあなたを賛美しますように。
あなたの裁きが私を助けてくださいますように。
176 私は失われた羊のようにさまよっています。
あなたの僕を捜してください。
私はあなたの戒めを忘れません。 

 この節を読んで、多くの方はイエスが、人々とご自身を「羊と羊飼い」に譬えて教えられたことを思い起こされたのではないでしょうか?マタイによる福音書の9章には次のような描写があります。

また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ 9:36)

また、ルカによる福音書15章では次のように譬えて、人々に対するご自身の愛を言いあらわされました。


あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を荒れ野に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか。 (ルカ 19:4) 

 今私たちが隔週で読んでいるヨハネによる福音書では、イエスは10章で、羊と羊飼いだけでなく、羊を襲う狼、狼が来ると逃げ出してしまう雇人の羊飼いを登場させて、ご自身と人々、人々を不当に支配して来た当時の権力者や宗教家について説明しています。

ぜひ、今週ヨハネによる福音書の10章を今日の詩編のテキストと共に読んでみてください。いかにイエスご自身の存在が神様からの語り掛けであり、良い知らせ、福音であることを実感できるでしょう。イエスによる羊と羊飼いの譬えは、当時のイスラエルの人々にとって実生活に即したわかりやすい譬えでした。

 ところがイエスはこの譬えの中で、人々が理解し難い不思議なことを言われました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」「私は羊のために命を捨てる。」 もちろん実際の羊飼いも、おおかみに襲われれば、雇人のように簡単に羊を見捨てて逃げ出したりはしないでしょう。しかし、命を羊のために捨てるというのはありえないことです。しかしイエスは、自分こそ民にとっての羊飼いであり、羊のために命を捨てると繰り返し、さらに、「捨てることもでき、それを再び受けることができる」「実は私には囲いに入っていない(イスラエル民族以外の)別の羊もいて、全ての羊を一つの群れとして統合する」「今私の言っていることは父である神から受けた戒めである」とさえ言われたので、宗教指導者たちは彼を狂人か危険人物と決めつけざるをえませんでした。

 イエスの十字架と復活と教会の誕生を知っている私たちにとっては何の不思議もありませんが、それを知らない彼らにとっては理解不能なことだったのです。イエスの目から見れば、全ての人は彼の羊です。しかし、人はどのような宗教を信じていようと、どこの国、民族に属していようと、自分で自分をコントロールすることはできない、さまよった状態にあるのです。ある人はさまよっているという自覚さえなく、ある人は詩人のように神様の助けの手が差し出されることを待ち望んでいます。

 私たちに心の状態は不安定で変わりやすいものですが、神様はこの節の詩人の祈りに答えてくださる方です。私たちのすべきことは、詩人のように必要を求めて祈ることです。

(祈り)

神様、詩編119篇を読むことを通してあなたの愛が強く確かなものであることを悟らせてくださいました。ありがとうございます。
 あなたが共にいてくださることを理解していても、目の前に現れる困難によっ て、簡単にあなたから目を逸らせ、進む方向を誤り、道に迷いがちな私たちにどうぞ語りかけて下さい。
 あなたの語りかけがよく聞こえるように私たちの心を変えて下さい。
 今週、一人一人が直面している問題に対して、あなたが生きて働いておられることを確信できるような新しいことを起こし、私たちに勇気を与えて下さい。  
 イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

詩編119編を一年以上かけて読んできました。わたしたちにとっての「律法」とは、守るべき規則なのではなく、神様の愛に基づいた語りかけであり、それがイエスという目に見える存在として実際に世界に来られたことを確認しました。私たちは、誰でも望むなら、このイエスに従う者、イエスと共に歩む者となれる、という良い知らせ=福音を聞き、それを信じて実際にイエスと共に歩み始めるという救いに与ったのです。

話し合いのために
  1. 今までで最も切実に神様に叫び求めたのはどのようなことですか?
  2. 神様の諭しを選ぶとはどのようなことでしょうか?
子どもたち(保護者)のために

ルカ19:4を読んで、羊飼いであるイエスと羊である私たちの関係を考えてみましょう。また、ヨハネ10:11-18の例え話が、イエスの十字架、復活として実現し、イエスが主である神の国が教会として実現しつつあることを考えてみましょう。