社会で傷ついて歪んだ心

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社会で傷ついて歪んだ心

ヨハネによる福音書 5:1-18

池田真理


 今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は5:1-18を読んでいきます。長いので2回に分けようかとも考えたのですが、この箇所は全体を通して読んで初めて見えてくるものがあると思ったので、1回にまとめることにしました。全体を通して見えてくるものというのは、私たちがどんなに社会の中で傷つき、心が歪んで、誰も信用できなくなっても、イエス様はそんな私たちの絶望とあきらめの中に入ってこられ、根気よく癒し続けてくださる方だということです。話の主人公は、38年間も体の麻痺に苦しみ、ベトザタという池の側に横たわっていた人です。少しずつ読んでいきたいと思います。まず、1-3節です。

A. 弱者に強者になることを求める社会 (1-3(4))

1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2 エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3 その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。† 5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。

 (話の内容に入る前に、この箇所の場面設定の問題に触れておきたいと思います。皆さんもお気づきかもしれませんが、前回の箇所までイエス様はガリラヤにいたのに、ここではまた突然エルサレムに行ったとあり、この先の6章ではまたすぐガリラヤに戻っていて、イエス様はそんなに何度もガリラヤとユダヤを往復したのかと疑問に感じます。そこで、聖書学者の中には、この5章と6章は本来は順序が逆だったのではないかという人たちもいます。聖書の記録の正確さの問題になりますが、内容にはあまり関係なく、今は時間がないので、このことに興味がある方はご自分で調べてみてください。)

 ベトザタは「憐れみの家」という意味だそうです。その池の近くには大勢の病気の人や障害のある人がいたとあります。3節後半から4節は、本来の聖書本文にはなく、後の世に追記された説明文なので、日本語でも英語でも、注釈として本文欄外に載っています。そこに、病気の人や障害の人がここにいた理由が記されているので、読んでみましょう

† <底本に節が欠けている個所の異本による訳文> 3b‐4> 彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである。

つまり、ベトザタの池には病気や障害を癒す不思議な力があると信じられていて、それを求めて人々は集まっていたということです。

 私はこの光景を想像した時、これは私たちの社会の残酷さを表しているのだと思いました。池の水はいつ動くのか、誰にも分かりません。そして、癒されるのはその動いた水に最初に入れた人だけです。それは、病者や障害者に自力で病や障害を癒すことを求め、あくまで健康人または健常者にならなければ、社会に参加することはできず、そこでずっと苦しむしかないと言っているようです。弱者が苦しむのは当然のこととして、それが嫌なら自力で強者になれ、と求める社会です。それは、障害者福祉や医療技術の発展した現代でも、決して無関係のことではないと思います。滝川病院や津久井やまゆり園での事件は、私たちの社会で障害者や病者に対する倫理観の欠如と差別が、あってはならない暴力となって現れてしまったものだと思います。

 それでは、続く5−9節前半を読んでいきましょう。

B. 私たちの絶望に入り込んでくるイエス様 (5-9a)

5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」8 イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。

1. 自分の無力と他人の無関心への絶望

 38年間も病気で寝たきりでいるとは、どれほどの苦しみなのか、私には想像もつきません。おそらく、肉体的な苦痛以外に、精神的に追い詰められ、貧困や差別にも苦しんできたでしょう。また、7節を読むと、この人を池まで運んでくれる人は誰もいなかったとあります。つまり、この人は、38年間、自分ではどうすることもできない病を抱え、その上、誰もこの人のささやかな願いを聞いてくれなかったということです。この人は、イエス様に「よくなりたいか」と聞かれて、「はい」とは答えなかったのは、「私には無理ですし、誰も助けてくれないので無理です」と言いたかったのだと思います。自分の無力さと、他人の無関心に絶望し、わずかな希望も諦めてしまっていたのかもしれません。

2. 私たちのあきらめを掘り起こすイエス様

 でも、イエス様はこの人に「良くなりたいか」と聞きました。聞くのも残酷なほど、当たり前の問いかもしれません。それでもイエス様がそう聞いたのは、この人が長い間自分で蓋をして、諦めてきた心の奥底にある願いと嘆きを、掘り起こそうとしたからだと思います。イエス様は、私たちにも時にそのように問いかけられると思います。私たち自身が自分で忘れようとしてきた願いや嘆きを、もう一度見るように、そして癒しを求められるように、語りかけてくださいます。

3. 信仰の有無は関係ない

 ここで一つ注目すべきだと私が思うのは、この人の癒しに関して、イエス様は一切、この人の信仰があるかないかには触れていない点です。「あなたの信仰があなたを救った」とも言っていないし、「信じるなら救われる」とも言っていません。そもそも、この人はイエス様が誰であるかを知らなかったし、この人が求めていたのはただ自分を池に運んでくれることで、まさかイエス様が病気を癒してくれるとは期待もしていませんでした。でもイエス様は、彼の病気を癒しました。ここに、私たちはイエス様の癒しは無償で無条件であるということを、改めて知ることができます。イエス様の癒しは、信仰と引き換えではありません。信仰のあるなしに関わらず、イエス様は私たちを憐れみ、癒してくださる方です。このことは、この先の話の展開でさらにわかります。9節後半から16節までを読みましょう。

C. イエス様を信じられない私たちの罪と弱さ (9b-16)

その日は安息日であった。10 そこで、ユダヤ人たちは病気を癒していただいた人に言った。「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない。」11 しかし、その人は、「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と尋ねた。13 しかし、病気を治していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られたからである。14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15 この人は立ち去って、自分を治したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16 そのため、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。

 38年患った病が癒されるという奇跡が起きたのに、ここには喜んでいる人は誰も登場しません。ユダヤ人たちは、律法を形式的に守ることにとらわれて、病を癒やされて歩き出した人を咎めました。彼らは、イエス様が自分たちの地位を危うくすることを恐れて、自己保身と嫉妬のためにイエス様を排除しようとしていました。

 そして、この話の中で最も悲しいのは、病を癒やされた人自身もイエス様を裏切っていることです。この人は、ユダヤ人たちに咎められると、「安息日の規則を破ったのは私の意志ではありません。私を治してくれた人に命じられたのです」と、イエス様に責任転嫁しています。そして、自分を治したのがイエスだと知ると、ユダヤ人たちにそう報告しています。密告したと言ってもいいかもしれません。彼は、ユダヤ人たちがイエス様に対して敵意を持っていることを知りながら、イエス様を売ったのです。この人は、自分を長い苦しみから解放してくれたイエス様に対して、どうしてこのように行動したのでしょうか?

 私は、この人の苦しみがあまりに長く、大きかったからだと思います。肉体的には癒されても、この人の心はまだ全然癒されていなかったのだと思います。誰も彼を助けられず、助けてくれなかった38年間、この人は、人に期待して裏切られる経験を何度もしてきたのではないでしょうか。不当な扱いをされたり、乱暴されたりすることもあったかもしれません。動かないままで38年を生きられたということは、彼の世話をしてくれる人もいたのだと思いますが、誰かと親密な信頼関係を持つということはできなかったのだと思います。人は簡単に信用してはいけないと思っていたかもしれないし、自分を本気で心配してくれる人なんていないと思っていたかもしれません。だから、イエス様に病気を癒やされても、なぜこの人がそんなことを自分のためにしてくれるのか、喜びよりも戸惑いの方が大きかったかもしれません。そして、ユダヤ人に咎められると、自分がまたひどい目に遭うことがないように、自分を守ろうとして、イエス様を売ったのだと思います。

 イエス様はこの人に対して、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。これは一見、この人が病気になったのはこの人の罪のせいだと言っているようですが、そうではありません。「もう罪を犯してはいけない」というのは、私たち全員に向けられている言葉です。罪のない人間は一人もおらず、私たちは全員、神様に罪を赦されなければ生きていくことはできません。イエス様は、この人に対しても私たちに対しても、これからの人生をどう歩むかを問いかけます。でも、この人の心が簡単には癒されなかったように、私たちの心は時に深く傷つき、神様の愛を信じることはできないし、誰かを信頼することもできない状態になることがあります。それは、社会の中で私たちの罪が連鎖して互いを傷つけた結果であり、私たちの罪と弱さです。

 最後に17-18節を読みましょう

D. 神様は休むことなく働き続けている (17-18)

17 イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とされたからである。

 安息日は、世界の創造を終えた神様が七日目に休まれたことから定められたものですが、イエス様は神様は休むことなく働き続けていると言われています。「今もなお」は、英語では “to this very day” (今日に至るまで)と訳されていて、神様がこれまでも今もずっと働き続けているという、神様の働きの連続性を強調しています。

 これは、38年間病に苦しんだ人にとって、どういう意味を持つのでしょうか?それは、この人が人にも神様にも見捨てられたと思っていた38年間ずっと、神様は決して彼のことを忘れていなかったということです。なぜ38年間も助けてくださらなかったのか、と私たちは思ってしまいます。何もしてくれない神様ならいないも同然で、忘れていないと言いながら何もしないなら、神様の愛は意味がないと思ってしまいます。

 でも、この人は無人島に暮らしていたのでも、山奥に一人で隔離されていたわけでもありません。この人はエルサレムという当時の大都市にいたのであり、彼を38年間放置したのは、神様ではなく、人であり、社会だと思います。これは、現代でも同じではないでしょうか。

 イエス様は、このように私たちの罪と弱さに支配された世界に、入ってきてくださいました。そして、決してあきらめることなく、休むことなく、私たちを救うために働き続けておられます。傷ついて歪んだ心の回復には時間がかかります。人間関係での傷つきが深ければ深いほど、人を信頼することは難しくなります。でも、その全てを、イエス様は十字架で背負われて、私たちと一緒に苦しみ、私たちの代わりに苦しみを引き受けてくださいました。人にも神様にも見捨てられる絶望の中に、十字架のイエス様は共にいます。イエス様は、そのように私たちの心の奥底に入ってきて、少しずつ根気よく私たちの傷を癒してくださる方です。「良くなりたいか」と聞かれるイエス様の言葉に、耳を傾けましょう。

(お祈り)主イエス様、私たちの心に触れてください。私たちが自分で忘れようとしてきた痛みや傷があるなら、教えてください。そして、あなたがさせてくださるなら、それをあなたに委ねます。または、委ねていくことができるように、助けてください。なぜあなたは祈りに応えてくださらないのかと思う時、そういう時こそ、あなたは近くにいてくださり、共に苦しんでくださっていること、共に苦しんでくれる人たちがいることを、思い起こさせてください。この教会の家族の中で、またそれぞれの友人や親族の中で、闘病中の人たちのことを思います。どうか、その人たちの体を癒して、心を強めてください。そして、互いにできることを教えてください。主イエス様、あなたは決して私たち誰のことも忘れておられないことを感謝します。あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは誰でも、人間関係の中で傷つき、社会の中で理不尽な扱いを受けたことがあります。自分の抱える問題をどうにもできない無力感と、助けてくれる人のいない孤独を長く味わえば、私たちの心は深く傷つき、歪んでしまいます。助けを求めることも、他人を信用することも、助けられた喜びを感じることも、難しくなるかもしれません。イエス様はそんな私たちの絶望に根気強く働きかけ、癒して下さる方です。

話し合いのために

1. 14節のイエス様の言葉をどう解釈しますか?

2. 神様は休みなく働き続けているとは、具体的にどういうことでしょうか?

子どもたち(保護者)のために

神様のことを疑ったり、嫌いになったりするのは、決して悪いことではないと教えてください。私たちには、神様についても世界についても、自分自身のことについても、分からないことがたくさんあって当然です。神様は私たちが素直に疑問をぶつけることを喜ばれます。神様について分からないことは、遠慮せずになんでも大人に聞いてみてください。(大人は子どもに聞かれて分からなければ一緒に考えようと伝えてください。)そして、自分ひとりでも心の中で神様に話しかけてみてください。