神様が私たちにくださる「命」とは

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神様が私たちにくださる「命」とは

ヨハネによる福音書 5:19-30

池田真理


 先週水曜日に、この教会のメンバーの一人であるカズさんが天国に旅立ちました。昨日がご葬儀でした。10年前に初めてこの教会にいらした時からすでに癌との闘病は始まっていましたが、おそらく私たちが全員共通して思い出すのは、カズさんがいつも穏やかで笑顔だったことだと思います。時にはユーモアで笑わせてくれましたし、美味しいものを持ってきてくれたことも何度もありました。そして、一緒にお祈りした後に静かに「ありがとうございます」と言われていた表情を思い出します。ここ1年は体調の悪い日が多く、なかなかお会いできませんでしたが、メッセージでのやりとりでいつも「神様を信じてついていきます」と繰り返されていました。私には想像もできないくらい心の葛藤も体の辛さもあったに違いないですが、神様を信じてついていく道のりを一緒に歩ませてくれたことを、本当にカズさんに感謝します。おそらく、教会のメンバーの皆さんもそう感じていらっしゃると思います。カズさんと一緒にいられた時間は間違いなく神様から私たちへの祝福であり、カズさんも私たちと一緒にいられたことを喜んでくれていたと思います。

 さて、今日もヨハネによる福音書の続きを読んでいくのですが、神様は不思議な方で、この箇所を通して、肉体の死を超えた永遠の命があることを私たちに思い起こさせてくれます。神様が私たちに与えてくださる命とは、肉体が滅んだら終わりではなく、肉体があるうちから始まっている新しい命であり、肉体の死を通して永遠に近づいていくものです。カズさんは私たちより少し先に永遠に近づいたということで、私たちは皆いずれイエス様のもとで再会できるでしょう。今は寂しさの方が優ってしまいますが、私たちにできることは、カズさんが生きたようにそれぞれの困難の中を生きて、再会できたときに喜び合えるように生きていくことだと思います。

 今日の箇所はヨハネによる福音書5:19-30です。最初に、初めと終わりの節を読みたいと思います。19-20節前半と30節です。

A. イエス様のすることは神様がしていること (19-20a, 30)

19 そこで、イエスは彼らに言われた。「よくよく言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20 父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。

30 私は自分からは何もできない。聞くままに、裁く。そして私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである。

 この箇所は、直前の箇所でイエス様が自分を神様と同等の存在としたことに対するユダヤ人たちの反発を受けて、イエス様が彼らに答えている流れの中にあります。この世界を造った創造主である神様が、今、彼らの目の前にいるイエスという一人の人物と同じ存在であるということは、彼らには到底受け入れられない荒唐無稽で冒涜的な話でした。でも、ここでイエス様は彼らと私たちに語りかけています。人々の病を癒やし、あらゆる差別を排除し、不正義を暴き、弱者を助けるというイエス様がなさっていたことは全て、この世界を造られた神ご自身の望みであり、神ご自身がなさっていることであると。なぜなら、イエス様と神様は一体であり、神様のなさることをイエス様は行い、イエス様が行うのは神様の意志のみであるからです。神様は、人間が作り出した概念や希望的幻想ではありません。イエスという具体的な一人の人物として2千年前にこの世界に来られ、人々を愛し、正義を行った方で、時間も空間も超えて私たちを導き、守っておられる方です。

 では、今日のメインの部分、20節後半から27節を読んでいきます。

B. 私たちを死から命へと移す方(20b-27)

また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなた方は驚くことになる。21 父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。22 また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。23 すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。24 よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。25 よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。26 父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27 また、父は裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

1. 神様が死者を復活させて命を与えるとは?(エゼキエル37章)

 神様が死者を復活させて命を与えるということは、旧約聖書の時代から預言者たちによって度々言われていたことです。それは将来訪れる肉体の復活というのも含まれますが、同時に現在の心の回復を指すものでもありました。例として、旧約聖書のエゼキエル書37章の一部を読みたいと思います。この箇所は、預言者エゼキエルに神様が幻を見せて、たくさんの人の骨が枯れ果てて広がっている場所で彼に語りかけた言葉です。一見恐ろしい光景ですが、神様は、それがこの世界の現実で、多くの人々の心が希望を失い、死んでいて、その回復こそが神様の望みであると語りかけています。エゼキエル書37:11-14を読みます。

11 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの家のすべてである。彼らは、『我々の骨は枯れ、我々の望みはうせ、我々は滅びる』と言っている。12 それゆえ、預言して彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。私の民よ、私はあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げ、イスラエルの地に導き入れる。13 私の民よ、私があなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。14 私があなたがたの中に霊を与えると、あなたがたは生き返る。私はあなたがたを自分の土地に安住させる。その時、あなたがたは主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる—主の仰せ。」

 私たちが生きる希望を失ってしまう理由はたくさんあると思います。大切な人を失った時、悲惨な経験をした時、体の苦しみが耐え難い時、夢が破れた時、孤独を感じる時。私たちは生きる意味はあるのかと疑い、生きる目的を見失います。そんな時にどうすればいいのか、神様がエゼキエルに語った言葉にヒントがあります。14節だけもう一度読みます。

14 私があなたがたの中に霊を与えると、あなたがたは生き返る。私はあなたがたを自分の土地に安住させる。その時、あなたがたは主である私がこれを語り、行ったことを知るようになる—主の仰せ。」

自分は自分のものではなく、神様に与えられた命を生きているだけだということ、神様から霊を与えられて生かされているのだということ、それを知って信じることが、私たちの絶望を希望に変えます。私たちのあるべき場所は神様の中にあり、神様は最初から私たちのためにご自分の中に場所を用意してくださっています。少し抽象的で分かりにくいので言い換えると、神様は私たちが神様のことを知る前から私たちのことを愛してくださっていて、そのことを知って信じることに、私たちの心は本当の安らぎを得るということです。神様の愛を知って、その愛に応えて神様を愛して生きることが、私たちの生きる意味であり、目的なのです。

 なぜ会ったこともない、見えない神様が私たちを愛していると断言できるのかというと、イエス様という方がいるからです。ヨハネによる福音書の言葉に戻りましょう。イエス様は24-25節でこう言われていました。

2. イエス様を信じることが、なぜ私たちに命を与えるのか?

24 よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。25 よくよく言っておく。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。

 イエス様の言葉を聞いて、イエス様を遣わされた父なる神様を信じる者は、永遠の命を得るとあります。永遠の命とは、続いて言われているように、「裁きを受けることなく、死から命へ移っている」状態を指します。つまり、永遠の命とは、神様に裁きを受けることなく、罪があっても赦され、死すべき者でありながら生かされている状態です。それは、先ほどお話しした、心の回復というものにもつながります。神様が私たちに望まれた心の回復というのは、絶望の中で希望を持つことであると同時に、私たちが自分の過ちを認めて、正しい方向に向き直って生きるということでもあるからです。私たちの過ちは、神様の愛を忘れてしまうことで、神様なんかいなくても人に愛されていればいいし、自分は自分の生きたいように生きればそれで幸せだと思うことです。でも、私たちは自分の人生を正しく導くことができるほど、正しくも強くもありません。信頼している人や、尊敬している人であっても、いつも正しい人は誰もいないし、私たちを利用することも期待に応えてくれないこともあります。そのことを恐れずに正面から受け止めて、いつも正しく、信頼できる方は誰かを知ること、つまり神様を知ることが、私たちの人生を正しく導く方法です。
 それでは、イエス様の言葉を知って、神様を信じるとはどういうことでしょうか。それは、イエス様の生き方と死に方を通して神様の愛を知り、神様の愛を信じると決心するということです。神様が私たちのことを愛していると断言できる理由は、イエス様が十字架で死なれ、復活されたからです。神様は、イエス様という一人の人としてこの世界に来られ、人々の病を癒やし、弱者を助け、正義を行ったと同時に、最後は十字架の苦しみを味わわれました。神様ご自身が、人に裏切られ、見捨てられ、体の痛みを味わい、神様にも見捨てられるという恐怖と孤独を経験されました。それはすべて、私たちが同じ苦しみを一人で耐える必要がなくなるためでした。そして、十字架の死後三日目に、神様はイエス様を復活させ、苦しみの先には希望があること、体の死の先に新しい命があることを示してくださいました。でも、その新しい命とは、神様を信じて新しい人生を歩むことによって、今、ここから、誰でも手に入れることのできるものです。「死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である」とイエス様が言われた通りです。
 それでは最後に28-29節を読みましょう。

C. イエス様を信じられない私たちの罪と弱さ (9b-16)

28 このことで驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞く。29 そして、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るであろう。

 これは、これまでの話よりさらに一歩踏み込んで、将来起きる神様の裁きについて言われています。イエス様はやがてまたこの世界に戻ってこられて、生きている者にも死んだ者にも裁きを下し、この世界を神様の愛が支配する正しいものにされます。それが具体的にどのように起こるのか、いつ起こるのか、私たちには分かりません。でも、少なくとも、その時には人間の不正義はなくなり、この世界から苦しみはなくなります。

 ここで注意したいのは、善を行った者は命を受け、悪を行った者は裁きを受けると言われていることです。これは、善い行いをした者は報われて、悪い行いをした者は罰せられるという意味ではありません。もしそうなら、悪い行いをしない人は存在しないので、全人類が罰せられて滅びるしかありません。そうではなく、神様の愛と赦しを信じるなら赦され、信じないなら赦されようがないという意味です。

 でも同時に、ここで「行い」と言われているのには理由があるように思います。口で信じると言いながら神様を悲しませる行動をしていたら、その信仰はないも同然です。信仰は心の問題であると同時に、具体的に私たちの行動を変化させ、生き方を変えるものでなければなりません。その意味で、神様の愛を心から信じて、その意志に従うためにどのような生き方を選択していくのか、私たちは全員問われていると言えます。

 神様が私たちにくださる命とは、ただ肉体の生命が維持されている状態ではなく、神様の愛の中で生きる命です。神様に愛されていることを信じて、神様を愛して生きることです。それは私たちの肉体があってもなくても、私たちがやめない限り永遠に続く神様と私たちの関係です。神様は、今日も、今この時も、私たち一人ひとりに手を差し伸べて、一緒に人生を歩もうと招いてくださっています。

(お祈り)主イエス様、私たちは先週、私たちの大切な友人をあなたの元に送り返しました。彼があなたの元で安らいでいることを感謝しますが、私たちが彼と会えなくなってしまった寂しさもあなたはご存知です。どうぞ、私たちがあなたを見上げて、彼が信じて生きたように生きていけるように、助けてください。今も病気と闘っている友人たちがいます。どうぞ、その人たちの心と体を強めて、支えてください。様々な困難に直面する中で、私たちがあなたを信頼して、希望を失わず、あなたの愛を信じて歩んでいくことができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

神様が私たちにくださる命とは、ただ肉体の生命が維持されている状態ではなく、神様の愛の中で生きる命です。神様に愛されていることを信じて、神様を愛して生きることです。それは私たちの肉体があってもなくても、私たちがやめない限り永遠に続く神様と私たちの関係です。イエス様はこのような命を私たちに与えるために、十字架で死なれました。私たちが求めるべき本当の命、永遠の命は、今ここで受け取ることができ、体が死んで終わりでもありません。

話し合いのために

1. イエス様がくださる永遠の命とは?

2. イエス様の裁きとは?

子どもたち(保護者)のために

メッセージのポイントを踏まえて、子供たちには少し難しいかもしれませんが、「(体が)死んだらどうなるの?」という問いを一緒に考えてみてください。