私たちがイエス様を知る方法

David Hayward @nakedpastor (https://nakedpastor.com/)
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私たちがイエス様を知る方法

ヨハネによる福音書5:31-47

池田真理

 今日はヨハネによる福音書の続きで、5:31-47を読んでいきます。この箇所は、イエス様を殺そうとしていたユダヤ人に対してイエス様が語った言葉です。イエス様は、彼らがなぜイエス様を信じられないのか、イエス様を信じるとはどういうことなのかを語られていて、それは私たちにとっても重要なことだと思います。すでに信仰を持った私たちは、どのように信仰を持ったのでしょうか。そして、時にイエス様のことが分からなくなって、疑ってしまう理由はなんでしょうか。また、まだ信仰を持っていない、信仰について迷っている方も、今日の内容を通して、イエス様を知るためにはどうすれば良いのか、知っていただければと思います。
 いつものように少しずつ読んでいきます。まず31-32節です。

A イエス様のことを証しするとは?(31-32)

31 「もし、私が自分自身について証しをするなら、私の証しは真実ではない。32 私について証しする方は別におられる。そして、その方が私について証しする証しは真実であることを、私は知っている。

 イエス様はご自分は神の子であり、神様ご自身であると教えましたが、ユダヤ人たちはそれを信じようとしませんでした。どこにそんな証拠があるのか、それが真実であると証明してみろと挑戦しました。これは、現代の私たちも同じだと思います。私たちはどうやってイエスの教えたことが真実で、イエスは本当に神ご自身であると証明できるでしょうか?ここでイエス様は、自分で自分のことを証明するわけにはいかないが、自分のことを証明してくれる方が別にいると話しています。そして、この後、それがどういうことなのか、詳しく話されています。
 でも、今日最初に立ち止まって考えたいのは、イエス様を信じるということは、理性的な思考を停止して盲目的に信じるということではないということです。何かについて「証しをする」とは、それについて証明する、証言するという意味です。つまり、それが真実であるということを示すということで、イエスかノーをはっきりさせて、一つの答えを示すことが目的です。ですから、イエス様に関する証しとは、イエスは神なのか、そうでないのか、イエスは真理を示す方なのか、そうでないのか、そのどちらが真実か、なぜそう言えるのかを判断して、それを示すということです。信じるということは、何が真実かを真剣に考えるということで、理性的な思考と判断を手放すことではありません。

 それでは、今日の本題、私たちはどのようにイエス様を知ることができるのかという内容に入っていきます。3つの方法があります。最初に33-35節を読んでいきましょう。

B. 私たちがイエス様を知る方法
1. ヨハネの証し(教会による証し) (33-35)

33 あなたがたはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。34 私は人間による証しは受けない。しかし、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたがたは、しばらくの間、その光を楽しもうとした。

 イエス様について知る方法の一つ目は、洗礼者ヨハネによる証しです。私たちに当てはめて考えると、先に信仰を持った人たちによる証し、つまり教会による証しと言えると思います。洗礼者ヨハネの役割は、人々に神様の憐れみと人間の罪を教え、人々を正しい道に導くことでした。その役割は先にイエス様を信じた人たちに引き継がれて、信仰は2千年を通して人から人へと伝えられてきました。教会はそういう人たちの群れです。人が人にイエス様のことを伝えるということは、言葉でイエス様がどういう方かを説明することも含みますが、自分の生き方や行動でイエス様の愛を表すことの方がリアリティがあります。目に見えない、耳に聞こえないイエス様の存在がリアルになるのは、目に見えて耳に聞こえる誰かの中にその方の存在が感じられる時だからです。私たちはそのようにして、互いのために「燃えて輝くともし火」になる役割を持っています。
 では36節に進みます。

2. イエス様のわざそのもの(聖書による証し) (36)

36 しかし、私には、ヨハネの証しにまさる証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。

 イエス様を知る方法の第二は、イエス様のわざそのものだと言われています。つまり、目の見えない人は見えるようになり、足の不自由な人は歩けるようになり、耳の聞こえない人は聞こえるようになる、という超自然的な奇跡の数々が、イエス様のことを証ししているということです。でも、残念ながら私たちは直接それらの奇跡を体験できるわけではありません。だから、この2番目の方法は私たちには間接的になってしまうのですが、聖書の記録を通してイエス様のわざを知ることで代用するしかありません。でも、聖書に記録されているイエス様の言葉や行いは、知れば知るほど、時代や文化の価値観にとらわれない普遍的な価値を持つものだと分かり、それはやはりイエス様のすごいところだと思います。そして、イエス様のなさったわざで最も重要なのは十字架で命を捧げられたことです。自分を神そのものとした本人が自ら命を捧げて死なれるという出来事は何を意味するのか、何の目的でそんなことをしたのか、私たちは聖書を通して知ることができます。聖書は私たちにイエス様がどんな方かを教える唯一の資料で、私たちが聖書を読むことはイエス様を知るためにとても大切なことなのです。
 それでは37-38節に進みましょう。

3. 父(神様)による証し(聖霊様による証し)(37-38)

37 また、私をお遣わしになった父が、私について証しをしてくださる。あなたがたは、父の声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。38 また、あなたがたは、父のお言葉を自分の内にとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたがたは信じないからである。

 イエス様を知るための3番目の方法は、天の父、つまり神様ご自身による証しです。神様ご自身が私たちに、イエス様は神様ご自身であり、神様はイエス様としてこの世界に来られたということを教えてくださるということです。それは、神様の霊である聖霊様による働きで、私たちはその働きを努力して獲得することはできず、ただ受け取ることしかできません。聖霊様は、一人ひとりの心の中に働いて、イエス様のことを証ししてくださいます。その証しは、信じる者の内面に起こる証しで、とても主観的なものですが、受け取った人の心を動かし、神様の言葉がその心に根付くようにします。天からの声が聞こえたり、神様の姿が目に見えるようになったりするわけではありませんが、「心で分かる」ということが起こります。
 ただ、私たちは自分勝手な思い込みを聖霊様の導きのように勘違いしないように注意する必要があります。最初にお話ししたように、イエス様はここで、神様を知っていると思い上がっている人々に向けて話しています。「あなたがたは父の声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない」と言われているのは、「あなたたちは神を知っていると思い込んでいるが、実は神のことを何も分かっていないし理解できていない」と批判しているということです。
 だから私たちは、イエス様を知るために、ここまでに出てきた3つの方法の全てをバランスよく使うことが大切です。つまり、教会と人に教えられることと、聖書を読むことと、聖霊様に頼ることの3つの方法を、どれか一つに偏らないように使うということです。そして、これから読んでいく後半の部分で注意されている、私たちが陥りがちな間違いに注意することも助けになります。

 それでは後半、私たちがイエス様を見失ってしまう理由について読んでいきましょう。まず39-40節です。

C. 私たちがイエス様を見失う理由
1. 聖書を知識としてしかとらえないから (39-40)

39 あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。40 それなのに、あなたがたは、命を得るために私の元に来ようとしない。

 前半の2番目に、聖書を読むことを通してイエス様のことを知るということをお話ししましたが、聖書の読み方を間違えると、私たちはイエス様のことを大きく誤解してしまうことが起こります。聖書の間違った読み方は色々なタイプがありますが、共通するのは、聖書を知識としてしかとらえず、イエス様を知る目的ではなく、自分に都合よく利用する目的で読むことです。
 イエス様がここで指摘しているのは、当時のユダヤ人のあるグループが、聖書の言葉を暗号のように解読しようとして、字数や単語数を細かく数えて意味を探ろうとしていたことに対する批判です。現代でも、そういう聖書の読み方をしようとする人たちがいます。また、聖書を占い本のように扱って、パッと開いたページの言葉を神様からのお告げのように読むのも同じ種類の間違いです。
 でも、もしかしたらもっと多い間違いは、聖書を学問や教養としてとらえて、その知識の多さが信仰の大きさを示すように誤解することかもしれません。旧・新約聖書全巻を言えるとか、たくさん聖書箇所を暗誦できるとか、まるで小学生の九九を覚えるテストのようで、信仰の本質とは全く関係ありません。
 また、さらに恐ろしい間違いは、自分の言いたいことを補強してくれるような聖書の箇所を探して、自分の主張を通すために聖書と神様の名を利用することです。
 イエス様がここで言われているように、聖書はイエス様について証しをするものです。私たちは解釈なしに聖書を読むことはできませんが、自分勝手な解釈をしないように、イエス様の視点から解釈する努力をしなければいけません。でも同時に、決して完全にイエス様と同じ視点を持つことはできないことを忘れない謙虚さを持っていることも必要です。
 それでは41-44節に進みましょう。

2. 神からの栄光よりも人からの栄光を求めているから (41-44)

41 私は、人からの栄光は受けない。42 しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、私は知っている。43 私は父の名によって来たのに、あなたがたは私を受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、その人を受け入れるだろう。44 互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか。

 このイエス様の指摘は、聖書を熱心に勉強するということにも関係がありますが、人々の神様への熱心さは神様への愛に基づくものではなく、互いに対する競争心に駆られているだけだという指摘です。私たちに当てはめるなら、聖書研究や教会活動への参加が、神様を愛しているからではなく、人から賞賛されて認められるための目的にすり替わっていないか、という警告ととらえて良いと思います。そして、もし私たちが神様に褒められることよりも人からの賞賛を求めていたら、本当に目の前に神様が来たとしても、そのことに気付けないし、神様を拒否することになってしまいます。それは、具体的に言えば、神様の助けを必要とする人が目の前にいても、その人のニーズに気付かず、その人を助けないことに疑問も感じないような状態になってしまうことです。教会も人の集団なので、どうしても人間関係の難しさがあります。互いに競争するのではなく、神様の前で互いに許し合うのでなければ、私たちは神様のことも神様を必要とする人たちのことも、私たちの中から締め出してしまうことになります。
 それでは最後の45-47節に進みましょう。

3. 律法主義に陥っているから (45-47)

45 私が父にあなたがたを訴えるなどと、考えてはならない。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが頼りにしているモーセなのだ。46 もし、あなたがたがモーセを信じているなら、私を信じたはずだ。モーセは、私について書いたからである。47 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私の言葉を信じるだろうか。」

 ここで言われているモーセとは、律法の代名詞と言っていいと思います。モーセもモーセの律法も、何も悪くありません。律法は人々に正しい生き方を教えるものです。間違いが起こったのは、人々が内面の問題を脇に置いて、表面的に律法の決まりを守っていれば良いという律法主義に陥ったからです。それは、神様から褒められるよりも人から褒められることを求めるという間違いともつながりますが、「正しく生きる」ということにとらわれて、神様を愛することを忘れてしまう間違いと考えていいと思います。この間違った考え方でいると、人から褒められるような立派な生き方をしていれば、本心で神様のことをどう思っていようと、あまり気にしなくなってしまう危険性があります。また反対に、何か一つの失敗を理由に、必要以上に自分を責めたり他人を責めたりして、自分も他人も神様から遠ざけてしまいます。どちらにしても、「正しい生き方」の判断基準を自分の価値観にする傲慢さが原因です。正しい生き方の基準を私たちが自分で決めて、それを守ってさえいれば神様に喜んでいただけると思うこと自体が間違っています。モーセを通して神様が私たちに教えたのは、私たちは罪深く、神様は憐れみ深いということです。私たちは、自分の人生を正しく導く力がないことを認めて、神様の憐れみを求めることしかできません。そのことを忘れて、自分の力で正しく生きようとすると、私たちは神様の憐れみを見失い、イエス様のことが分からなくなってしまうでしょう。

 今日は、イエス様を知る方法と、イエス様を知るのを妨げる私たちの側の問題についてお話ししました。肝心の、ではイエス様とは誰なのかという問いの答えは、一人ひとりが答えを出していく必要があります。教会の人たちとのやり取りを通して、聖書を読むことを通して、そして一人で祈り聖霊様に助けられることを通して、それぞれがイエス様のことをもっとよく知っていきましょう。

(お祈り)神様、どうかあなたが今も生きて働いておられる神様だということを、私たちがもっと良く知ることができるように助けてください。あなたが私たちに関心を持ち、一人ひとりの人生と、それぞれの人間関係の中に、共におられる方だということを、私たちに分かるように教えてください。聖書を読むとき、私たちの心をあなたの愛と憐れみで触れて、あなたを礼拝する心を燃え立たせてください。私たちが自分勝手に、傲慢になるとき、どうぞ教えてください。そして、あなたの望む道に導いてください。主イエス様、これら全てのことを私たちに教えるために、十字架で死なれたあなたを覚えます。欠けの多い私たちを、あなたの愛で結び合わせてください。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちはイエス様のことを目で見ることはできませんし、その声を直接聞くこともできません。それでも私たちがイエス様を「知る」ことができ、信じることができるのは、イエス様に関する「証し(証言)」が真実であると判断し、信じるからです。イエス様に関する証言とは、イエス様の言動に関する聖書の記録と、それを解釈してきた人々(教会)の教えです。そして、最終的に最も重要なのは、一人ひとりの内に来て真実を明らかにされる聖霊様の働きです。

話し合いのために

1. 私たちがイエス様を知るための聖霊様の働きとは?

2. イエス様を見失う理由について、あなたはどう思いますか?

子どもたち(保護者)のために

目に見えない、耳に聞こえない神様を、私たちはどうやって信じることができるのでしょうか?神様はいるということも、神様は私たちを愛しているということも、どう証明すればいいのでしょうか?ノートのBを参考に、ご自分の経験も交えて話し合ってみてください。