主の憐れみを求めて目を上げる

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主の憐れみを求めて目を上げる

詩編 123

永原アンディ

 今日のテキストは123編です。短い詩ですから、まず全体を読んでみましょう。

1 都に上る歌。
あなたに向かって私は目を上げます
天に座す方よ。

2 見よ、奴隷の目が主人の手に向かうように
女奴隷の目が女主人の手に向かうように
私たちの目は我らの神、主に向かう
主が私たちを憐れんでくださるまで。

3 私たちを憐れんでください。
主よ、私たちを憐れんでください。
蔑みは飽きるほど受けました。
4 私たちの魂は飽きるほど受けました
高ぶる者らの嘲りを
傲慢な者らの蔑みを。 

1. 「私」と「私たち」

 最初の節だけが、「私」が神様に向かって歌いかける形になっていますが、2節以降は「私たち」が神様に歌っている短い詩です。前回122編では、「私の信仰から、私たちの信仰へ」という話をしました。それは、決して信仰が個人的なものであってはならないということでも、共同体の信仰の方が優れているということではありません。
 私たち一人一人が神様に愛され、神様に似せて創られたユニークな存在です。 聖書は共同体のために個を捨てなけれなならないと教えてはいません。神様が私たち一人一人に愛の目を注がれるように、私たちもまた目の前にいる一人を一人として愛するのであって、個人が共同体より軽い存在ではないのです。

 しかし一方で、共同体が強調されるのは、人は一人では生きてはいけない存在だからです。神様は誰かを通して、私たちに語りかけ、憐れみ、恵まれます。共同体と言ってきましたが、神様を信じる者にとって、それは教会です。イエス・キリストを頭(かしら)とする教会が世界に一つだけ存在します。そして、ユアチャーチはその一部なのです。
 教会以外にも共同体と呼ばれるものは多くあります。それらの存在によって、人は助けられ生きているのです。しかし教会の代わりとなれる共同体はありません。その理由は、リーダーが神様だという点です。教会以外の共同体のリーダーは人間です。そしてリーダーである人間も利己的で、過ちを犯し、敵を作ります。例えば国はそのような共同体です。ヤクザやマフィアだって共同体なのです。
 教会は、大きな家族、神様が主である大きな家族のような共同体です。イエスを主と信じる人は皆この家族の一人なのです。

 イエスに従って歩む者にとっては、自分を愛すること、人を愛すること、神様を愛することは対立する事ではありません。対立しないばかりか、この三つの要素のどれが欠けても本当の愛とは言えないのです。神を愛さないなら、人のことも自分のことも本当に愛することはできません。 他者を愛さないなら、神様のことも自分のことも本当に愛することはできません。自分を愛さないなら、神様のことも他者のことも本当に愛することはできないのです。
 教会は、この愛が可能となる唯一の共同体であるはずです。しかし、教会を名乗ればそれが自動的に実現する事ではありません。むしろ簡単に、その特色を失い、求心力が「愛」ではない共同体に変質してしまいやすいものです。ですから私たちは、時々立ち止まって、「私たちは本当の愛に生きているだろうか?自分を、人々を、神様を矛盾なく愛しているだろうか?」と考え直してみる必要があるのです。

2. 主の憐れみを求めて目を上げる (1, 2)

1 都に上る歌。
あなたに向かって私は目を上げます
天に座す方よ。

2 見よ、奴隷の目が主人の手に向かうように
女奴隷の目が女主人の手に向かうように
私たちの目は我らの神、主に向かう
主が私たちを憐れんでくださるまで。

 主に向かって目を上げることは、私たちの捧げる礼拝の基本的な姿勢
です。 そこには様々な意味が込められています。しかしこのテキストで示唆されている人々の心の状態は、喜びがあふれて上を向くというような幸せなものではないようです。
 「主が私たちを憐れんでくださるまで、 私たちの目は我らの神、主に向かう」 つまり「なんとかしてください、憐れみをかけてくださるまであなたをみ続けます」という必死な思いで見上げているということです。

 みなさんには、捨てられた子猫の入った段ボール箱に遭遇した経験がありませんか?私には何度もありますので、今までうちで暮らした猫たちはほとんどそのような経緯でやってきたのです。彼らの「そのまま立ち去るなら、一生後悔しますよ」と思わせる視線で見つめ、鳴き続ける姿に抵抗できる人間はほとんどいないでしょう。猫がしたたかなところは、そんな経緯で拾われてきたにも関わらず、いつの間にか、寂しい人間のところに“来てあげた”私というポジションに変わっているというというところです。
 猫の話ばかりではなく犬の話をしましょう。マタイによる福音書15章21-28です。

イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に退かれた。 すると、この地方に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら付いて来ます。」 イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、私をお助けください」と言った。 イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」 そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。
(マタイによる福音書 15:21-28)

 必死に求めることは卑屈になることではありません。それは絶対の信頼からくることなのです。神様は見返りを求めずに与えてくださる方です。私は愛されている子なのだから、憐れみを受けて当然なのだと思って良いのです。むしろ、変な遠慮は神様に対して失礼なことです。神様は真剣に求めることを喜ばれます。それはヤコブの信仰に遡ることのできる信仰的な態度です。苦しいこと、悲しいことを心の奥に隠しておかないで、主の憐れみによって癒されることを求めましょう。

 それでは私たち、教会として求めるべき主の憐れみはあるでしょうか?私はたくさんあると思います。キリスト教は影響力を失いつつあります。海外でも国内でも同じです。スキャンダルを起こし信用を失いつつあります。イエスがあれほど嫌われた律法主義的な傾向を帯びつつあります。その結果、イエスに出会うべき人々を彼から遠ざけてしまうでしょう。
 教会は改革されなければなりません。その一部であるユアチャーチはどうでしょう?変えるべきでないところを変えてしまった。変えなければならないとことを変えずに来てしまった。30年続けてくれば、必ずそのようなことがあるはずです。ですから私たちは、共同体のこととして、真剣に主の憐れみを求めて、私たちの目を主に向かって上げるべきではないでしょうか。

3. 嘲(あざけ)りと蔑(さげす)み (3, 4)

3 私たちを憐れんでください。
主よ、私たちを憐れんでください。
蔑みは飽きるほど受けました。
4 私たちの魂は飽きるほど受けました
高ぶる者らの嘲りを
傲慢な者らの蔑みを。

 詩人が、神様に求めた憐れみとは、人々の嘲りや蔑みによってひどく傷ついた魂を癒し、強め、喜びに満たされることでした。そして、それはイスラエルという民族的共同体に対する、周辺国からの嘲り、蔑みであったようです。
 日本のキリスト教も社会からの嘲り、蔑みに直面した時期がありました。それは、第二次世界大戦の時のことです。キリスト教は敵国の宗教であり、天皇を神聖な存在と認めないキリスト者は非国民と罵られました。日本が負けて戦争が終わったので、国の主人は天皇ではなく国民となりました。けれども、私はそんなことは望みませんが、戦中、戦前のような体制に戻したいと考える人々もいるのですから、また同様のことが起こらないとは限りません。民主主義の国が独裁者の支配する国になってしまうことは今でも起こっています。 

イエスを主と信じる者は、自分が神様から主権を委託された主権者の一人として、その国の政治について責任を負っているのです。残念ながら民主的な社会であっても、嘲り、蔑みは存在します。私たちは、人種差別、民族差別、性差別、学歴差別など、様々な偏見にさらされています。それらは個人的な事柄であるとともに共同体:家族:教会の事柄なのです。私たちのうちの誰かが、個人的なことで嘲りや蔑みを受けたとすれば、それは「私たち」の受けたことでもあるのです。
 自分は嘲や蔑みとは無縁と思っている人も多いと思いますが、泣く者と共に泣き、共に笑う者となるように勧められている私たちにとっては他人事ではないのです。しかしそれは決して、お互いに問題を詳細にわたって知り合わなければならない、ということではありません。むしろ、イエスが主である家族なのですから、それぞれをイエスが誰よりも知っていてくださるので、詳細を知ることなしに、共に悲しみ、苦しみ、そして共に祈ることができるのです。

 私たちは今も嘲りや蔑みに苦しむ人々と共に「私たちは神、主であるあなたを見上げ、目を逸らせません。あなたが私たちを憐れんでくださるまで」と祈り続ける教会でありたいと思います。

(祈り)

神様、私たちを憐れみ、魂を癒してください。
あなたの愛に背いて、嘲りや蔑みで人々を苦しめる者にご自身を現し、あなたの愛に立ち返らせてください。
出自や性別、性指向、性自認、学歴、職種による偏見によって差別され嘲られ蔑まされ傷ついた魂を憐れみ、癒し、引き上げてください。
イエスキリストの名前によって、期待して感謝して祈ります。


メッセージのポイント

 イエスに従って歩む者にとっては、自分を愛すること、人を愛すること、神様を愛することは対立する事ではありません。むしろ、この三つの要素のどれが欠けても本当の愛とは言えないのです。
 私たちは、苦しみ、恐れから解放されるために、主の憐れみを期待することができます。そして憐れみが得られるまで、主から目を離さないという熱心が必要です。

話し合いのために

1. 主の憐れみとは何ですか?

2. 嘲りと蔑みについての経験をシェアしてください?

子どもたち(保護者)のために

短い詩ですから、一緒に読んでみましょう。嘲りや蔑みは子供たちの日常生活の中でも体験することで、ひどくなればいじめ、それによる不登校につながるものです。孤立、仲間はずれの悩みは珍しくありません。しかし神様が憐れみの方で、求めれば応えてくださることを伝えてください。この詩の代わりにマタイ15章、マルコ7章の小犬の話をしてあげてもいいと思います。