種を蒔くイエス

Kuzma Petrov-Vodkin, Public domain, via Wikimedia Commons
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日曜礼拝・英語通訳付

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種を蒔くイエス

詩編 126

永原アンディ

 今日も詩編を通して語りかけてくださるイエス・キリストの言葉に耳を傾けましょう。今日は126編です。初めに全体を読みましょう。

1 都に上る歌。主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき私たちは夢を見ている人のようになった。
2 その時、私たちの口は笑いに舌は喜びの歌に満ちた。その時、国々で人々は言った「主は、この人たちに大きな業を成し遂げられた」と。
3 主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。
4 主よ、ネゲブに川が流れるように私たちの繁栄を再びもたらしてください。
5 涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。
6 種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。

1. 私たちにとって回復されるべきことは何か? (1-4)

 シオンは元々、エルサレムの中の特定の地域を指す言葉でしたが、聖書ではエルサレムまたそこに住む人々、さらにはイスラエルを象徴的に指すことばとして多く用いられています。ネゲブは、今ネゲブ砂漠と呼ばれているイスラエルの南側のほとんどを占める荒野です。4節までもう一度読みます。

1 都に上る歌。主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき私たちは夢を見ている人のようになった。
2 その時、私たちの口は笑いに舌は喜びの歌に満ちた。その時、国々で人々は言った「主は、この人たちに大きな業を成し遂げられた」と。
3 主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。
4 主よ、ネゲブに川が流れるように私たちの繁栄を再びもたらしてください。

 エルサレムはかつて繁栄し、神殿が建てられ、政治的にも精神的にもイスラエルの中心でしたが、バビロニアやローマなどの強力な国が興るたびに支配下に置かれ繁栄は過去のものとなりました。
 協会共同訳聖書で「主がシオンの繁栄を再びもたらされたとき」と訳された部分は「捕らわれていた者たちが帰される」と訳すこともでき、NIVや新共同訳はそのように訳しています。そのほかの日本語訳は協会共同訳と同じです。どちらとも確定できない原語ですが、どちらの訳でも、私たちが受け取るべきことは変わりありません。それはどちらにしても「失っていた大切なものを取り戻す」ということです。そして、その大切なものとは、多くの人にとって今も昔も経済的な繁栄、政治的な安定です。しかしそれらは、与えられたかに見えてもやがて失われるということが繰り返されます。この詩でも、一度取り戻せた繁栄が、また、今は虚しいものとなっていて、人々が願い求めているように歌われています。
 イエスが私たちに与えてくださる繁栄とは、そのような虚しいものではありません。それは、失われていた神様との親密な関係によってもたらされる豊かな人生です。それは荒れ果てたネゲブ砂漠に川が流れるというほどに驚くほど豊かな恵みです。

2. 種を蒔くイエス (5,6)

それでは5,6節見てゆきましょう。

5 涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。
6 種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。

 地上を歩まれたイエスが、実際に種まきをしたという記録は聖書には見当たりません。イエスの家は農家ではありませんでしたが、もしかしたら少年時代に父母が所有していた小さな畑で種まきを手伝ったことがあるかもしれません。どちらかというと、イエスには「羊飼い」というイメージが強くあります。

 しかし今日は「種を蒔く人」としてのイエスを想像していただきたいのです。 イスラエル民族は、はじめは遊牧の民でしたが、やがて農耕も主要な産業となりました。マタイによる福音書のイエスの系図に登場するルツの物語が、旧約聖書の「ルツ記」です。イエスの家系はこの時代は農家であったことがわかります。ルツ記は短い物語ですが、これもまた喪失からの回復の物語として今日の詩のこの部分を理解する助けとなると思います。じっくり読んでも30分はかかりませんから、今日の箇所と共に今週読んでみてください。19世紀のフランスの画家ミレーは、ルツ記から着想を得て「落穂拾い」を、イエスの譬えから「種蒔く人」を描いてます。それぞれバリエーションがあり、どちらもアメリカのボストン美術館や甲府の山梨県立美術館に所蔵されています。ボストンは遠すぎますが、山梨なら電車でも車でも町田から2時間くらいで行けますから、一度ご覧になられることをお勧めします。

 イエスは、羊や羊飼いだけでなく、種蒔きや収穫も、人々を教える時に比喩として用いられました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネによる福音書12:23-26)

ここでは、イエスご自身と彼に従う者を、蒔かれて死ぬことによって新しい命を生み出す種としてたとえています。
「毒麦のたとえ」(マタイ13:24-30、36-43)では、蒔くのはイエスご自身、よい種はイエスに従う人々、畑は世界です。
 そして、一番よく知られている「種を蒔く人」のたとえ(マタイ13、マルコ4、ルカ8)では、蒔くのはイエス、あるいはイエスの言葉を伝える者で、種は神様の言葉、蒔かれる土地は人々の心です。
 このようにイエスは、種を蒔くこと、刈り取ることにたとえて、彼が私たちに伝えたかった大切な事をいくつも教えてくださいました。

 今日の詩編で知るべきことの核心は、イエスご自身が、涙と共に種を蒔いた方であり喜びの歌と共に刈り入れた方であるということ。そして種の袋を背負い、泣きながら出て行った方であり、穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来た方であるということです。この世界にあって彼は誰からも真に理解されることはなく、すべての弟子たちにも見捨てられ、一人で苦しみを背負い、ご自身の言葉通り十字架で死なれました。しかし、よみがえられて、私たちに真の繁栄の希望を与えてくださったのです。

3. 種を蒔く私たち

 涙と共に種を蒔き、喜びの歌と共に刈り入れるイエス。種の袋を背負い、泣きながら出て行き穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来るイエス。イエスは今も教会の働きを通して、私たちの歩みを通して、人々の心に福音=よい知らせを撒き続けています。それは、私たちもまた「種を蒔く人」であるということです。

 収穫の喜びは想像できても、今直面する困難、悩み、苦しみに心が挫けそうになる私たちですが、それぞれの今の営みは自分勝手なものではなく、イエスの働きの一部であるということを忘れないようにしましょう。
 イエスは皆さんを経済的に社会的に繁栄させたいとは思っておられません。それは長くは続かないものだからです。私たちの欲望には際限がなくいつまでも満足を得ることはできないからです。 また、地上で富を蓄えてもそれをその先に持っては行けません。
 イエスはそれよりも価値のある永遠の繁栄、満たされて失う心配のない繁栄、神様と共にいる喜びを与えてくださいます。
 今も、私たちの多くは、涙と共に蒔きつつあり、収穫を見通せない状態に置かれています。しかし、私たちの主イエスは私たちの心に最高の種を蒔いてくださっているのですから、収穫の喜びの歌を先取りして、今日も共に歌い礼拝しましょう。

(祈り) 神様、あなたが私たちの心に、あなたを信頼する信仰の種を蒔き、環境を整えて発芽あせてくださり、ここまで育ててきてくださったことをありがとうございます。目の前に困難があっても、あなたのなさることは完全ですから、恐れずに収穫を期待してこの営みを続けていきます。どうぞ、私たちを導いてください。この私たちの営みを通して、あなたが私たちの愛する人々のうちにも種蒔いてくださり、彼らが真の繁栄を、神様との関係の回復を得ることができるように私たちを用いてください。
主、イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

私たちを良いもので満たしてくださる神様と共にいることこそ真の繁栄であり、私たちが求めるべきことです。そこには体にも、心にも飢え渇きがなく、満ち足りた生活があります。それが一人一人のうちに実現するように、イエスは私たちの心に種を蒔くように、ご自身を表され、真の繁栄の鍵である私たちの神様との関係を回復してくださいます。 

話し合いのために

1. 私たちが求めるべき繁栄とはどのようなものですか?

2. 真の繁栄を得るために、私たちに必要なのは何ですか?

子どもたち(保護者)のために

この箇所は、「つらく、悲しい時にも努力を続ければ収穫が期待できるから頑張りましょう」という道徳律ではありません。人間的な努力は報われない時もあります。イエスが「福音」という種を人の心に蒔くために来てくださったこと、心に植えられた信仰の種を親子で育てていくことを話しましょう。聖書はここではなく、マタイによる福音書13:18-23がよいでしょう。