強者であろうとする私たちと弱者を選んで愛するイエス様

Icon of Bessarabia (Moldavia), Public domain, via Wikimedia Commons
見る
日曜礼拝・英語通訳付

❖ 聞く(メッセージ)

❖ 読む

強者であろうとする私たちと弱者を選んで愛するイエス様

ヨハネによる福音書6:60-71

池田真理

 今日もヨハネによる福音書の続きで、今日は6:60-71を読んでいきます。これまでの2ヶ月、4回のメッセージにわたって、6章からお話ししてきました。特に直近2回の内容は「イエス様は命のパンである」というテーマで、私たちに永遠の命をもたらす命のパンはイエス様ご自身で、私たちはイエス様を食べなければ本当の命を生きていることにはならない、と教えられてきました。今日の箇所は、この教えに対する弟子たちの反応が記録されています。読んでいくと分かりますが、弟子たちの大部分はイエス様に失望して、イエス様から離れていった、と記録されています。イエス様に対する人々の態度は、今日の箇所を境に、敵対的になっていきます。また、このヨハネによる福音書では、今日の箇所を最後にイエス様は故郷ガリラヤでの活動をやめ、次章からはユダヤ地方に向かったと記録されています。このように、今日の箇所は様々な意味でこのヨハネ福音書で節目にあたる箇所で、イエス様の思いと私たちの思いがいかに違うかが改めて鮮明にされている箇所だと思います。
 いつものように少しずつ読んでいきたいと思います。まず60-63節です。

A. 私たちはイエス様に勝手に期待して勝手に失望する
1. 「肉」に頼ろうとしているから (60-63)

60 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。」61 イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。62 それでは、人の子が元いた所に上るのを見たら、どうなるのか。63 命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 6章の初めでは人々はイエス様を湖の対岸まで追いかけてくるほどにイエス様に熱狂していましたが、彼らの熱は一気に冷めてしまいました。前々回にお話ししましたが、人々がイエス様に期待していたのは、イエス様が彼らの民族の政治的・軍事的リーダーになることでした。彼らは、イエス様がローマ帝国の支配からユダヤ人を解放してくれることを期待していたのです。彼らの期待は、人間なら誰もが持っている罪に由来します。私たちは、より強い権力を得て他人を支配したいと願い、自分の利益を守るために他人の権利を奪っても良いと考える生き物です。そして、それは個人のレベルでも、民族や国家のレベルでも同じです。民族や国家の利益を守るためという大義名分を得ることで、私たちはどんな不正義でも正当化してしまう恐ろしい生き物です。
 イエス様は、私たちのそんな間違った期待には応えません。代わりに、私たちが自分の罪を認めて、イエス様に助けを求めることを求めました。それが、「私の肉を食べなさい」という教えでした。イエス様に熱狂していた人々は、イエス様が自分たちの民族の利益を守ることに関心がなく、それどころか、奇怪で冒涜的な教えを吹き込もうとしているのだと考え、一気にイエス様から離れていきました。イエス様に勝手に期待して、勝手に失望したのです。
 イエス様は、人々がご自分に対して失望していることに気がつき、こう言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子が元いた所に上るのを見たら、どうなるのか。」「人の子が元いた所に上る」というのは、イエス様が元々神様の元から来られた方であり、十字架での死後、復活されて、40日後に天に上って神様の元に戻って行かれる時のことを指していると考えられます。文章は「どうなるのか」という疑問形で終わっていますが、原語では未完成の文章で、「あなたがたがそれを見たならば…」という文章です。想定されているのは、「あなたがたがそれを見たならば、あなたがたはさらに失望し、理解しないだろう」という否定的な意味です。つまり、神様と同等の方が十字架にかけられて殺され復活するいう一連の出来事が起こった時、「あなたたちはなお理解せず、さらに失望するだろう」という意味です。全知全能の創造主である神様が一人の罪人として人間に捕えられて惨めに処刑されるようなことは、人間の一般的な感覚からすると非常識すぎて受け入れられないからです。
 私たちは、社会の中で自分の権力や影響力を拡大したいと願い、自分でそれが叶えられないなら、せめて強い力を持つ人々の仲間になって恩恵を受けたいと願います。反対に、社会の中で見下されたり排除されたりはしたくないですし、そういう扱いを受けている弱い人たちとは付き合いたくないし、一緒にされないように気を付けます。それは全て、ここでのイエス様の言葉で言うなら、「肉」に頼ろうとしているからです。他人より優れた能力や実績、社会的地位、財産、それらをより多くを持っていることで、安心しようとすることです。私たちがこれらのものに縛られているなら、これらを与えてくれないイエス様には失望するしかありません。そして、イエス様の十字架の死は敗北としか思えないでしょう。
 64-66節に進みましょう。

2. 聖霊様を頼らないから (64-66)

64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる。」イエスは最初から、信じない者が誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである。65 そして、言われた。「こういうわけで、私はあなたがたに、『父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない』と言ったのだ。」66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。

 イエス様の十字架の死の意味を知ることは、私たち人間の力だけでは不可能で、聖霊様の助けが不可欠です。このことは前回も前々回も触れた通りです。イエス様は再三、「父が与えてくださった者でなければ、誰も私のもとに来ることはできない」と言われたのはこのためです。父である神様が、ご自身の霊である聖霊様によって私たちの心を導いてくださらなければ、イエス様の存在を理解することは私たちにはできません。聖霊様が私たちの思い上がった心を打ち砕いてくださらなければ、神様の強さは私たちには弱さにしか思えず、神様の愛は愚かにしか思えず、神様を神様とは思えないのです。
 このことは、今日後半の内容からもよくわかるので、先に進みたいと思います。まず67-69節です。

B. イエス様は弱い私たちを招いて赦して愛してくださる
1. ペトロの過信 (67-69)

67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。69 あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」

 ヨハネによる福音書の中で「十二人」の弟子たち(または使徒たち)に触れられるのはここが初めてです。イエス様はここで明らかに、他の大勢の弟子たちとこの十二人の弟子たちを区別しています。「あなたがたも去ろうとするのか」というイエス様の問いかけは、原語のニュアンスでは、「あなたたちは離れていかないでしょう?」という肯定的な意味です。イエス様は十二人の弟子たちを信頼して、「他の大勢の弟子たちは離れ去っていったけれども、あなたがたは離れないだろう」という期待を込めたということです。イエス様は十二人にご自分から離れてほしくない、一緒にいてほしいと願ったとも言えると思います。

 でも、イエス様がこの十二人を特別信頼したのは、決して彼ら自身が特別に他の人々より優れていたからではありません。というのは、十二人の弟子たちは全員、いずれイエス様を見捨てて逃げてしまう弱い人間だからです。ここでペトロは、十二人を代表するように、自分たちのイエス様への信仰を立派に告白していますが、ペトロも他の弟子たちも、イエス様が逮捕されると自分たちも逮捕されるのを恐れて逃げ出してしまいます。彼らは皆、何か特別な能力を持っていたわけではなく、社会的身分は低く、宗教的な専門家でもなく、人柄が特別優れていたわけでもありませんでした。イエス様は、最初から彼らがそういう弱い普通の人間であることを知っていましたが、それでも彼らを選んで弟子にしました。むしろ、彼らが普通の弱い人間だからこそ、イエス様は彼らを自分の弟子に選んだと言った方がいいかもしれません。

 マルコによる福音書にイエス様が十二人を選んだ時のことが書かれているので、その箇所を読んでみます。(マルコ3:13-15)

13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らは御もとに来た。14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、宣教に遣わし、15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

このように、イエス様が十二人を選んだ目的は、彼らをご自分のそばに置き、ご自分の働きを担わせるためでした。彼らがご自分を見捨てて離れ去ってしまうことがあることも、働きに失敗したり間違えたりすることがあることも、イエス様は最初から知っていました。それでもイエス様は、彼らを招いてそばに置き、旅を共にし、愛されました。
 私たちがイエス様に選ばれて、信仰を持って、イエス様を信じるということも、同じことです。私たちの弱さを最初から知っていて、それでも私たちを招いて、赦して、愛してくださるのがイエス様です。私たちが優れているからではなく、イエス様がただ私たちをそばにおきたいと願ってくださったので、私たちはイエス様と共に生きることができます。
 このことが最もよくわかるのは、次に続くイエス様の言葉です。最後の70-71節です。

2. ユダの裏切り (70-71)

70 すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

 「ユダは悪魔だ」というイエス様の言葉はとても厳しく、取り返しのつかない断罪と排除の言葉に聞こえます。でも、実はイエス様はペトロのことも「退け、サタン」と呼んだことがあり、弟子たちが悪魔の誘惑に負けそうな時には、ちゅうちょなくこの呼び方を使います。悪魔という存在が実際に私たちに力を及ぼすことを注意しているとも言えます。悪魔は、私たちを神様から引き離し、私たちに「神様なんていない」「神様なんて信頼できない」と思わせようとしてきます。悪魔の目的は、私たちに殺人などの重罪を犯させることではなく、私たちに神様の愛を否定させて絶望させることなのです。私たちがイエス様を信頼したいと願いながら絶望してしまうことがあるのは、自分の力に頼らなければいけないという悪魔の罠にはまっているからかもしれません。
 そして、この箇所で重要なのは、イエス様は悪魔の誘惑に負けてしまう者もご自分の弟子とされたということです。イエス様の選びはそれほどに一方的で、選ばれる側の資質の問題ではないということです。また、選ばれたからといって、悪魔の誘惑から自由になれるわけではないとも言えます。自分は確かに神様に選ばれているということ、神様に愛されているということを、繰り返し自分で確認し、イエス様のそばにいたいという願いを自分で確かめる必要があります。それは、イエス様を信頼する意志の力を強くしなければいけないという意味ではありません。そうではなく、神様でありながら人となられ、人に処刑され、命を捧げられたイエス様の愛の深さと意味を、その時々の置かれた状況の中でそれぞれが自分で確かめるということです。そしてまた、どんなにイエス様の素晴らしさを頭で理解したとしても、私たちにはイエス様を信じたくても信じる力がないこと、イエス様の愛を信頼したくても疑ってしまうことを認めて、イエス様に助けを求めることです。その時に一番大切なのは、イエス様は私たちが何か優れているから選んでくださったのではなく、最初から弱いことを知っていたからこそ、招いて下さったのだと思い起こすことです。そして、何度も疑い、時には裏切る私たちを赦して、私たちを愛するのをやめないでいてくださるのがイエス様だということを、その度に知ることです。イエス様は、私たちが弱いままで赦されるために、間違ったままで愛されるために、十字架に架かってくださった方なのです。
 私たちは強者であろうとしますが、イエス様は弱者を選んで愛される方です。イエス様の愛を知って、自分が弱いままで喜び、他人の弱さを受け入れて、互いに許し合えるように、聖霊様に助けていただいて歩んでいきましょう。

(お祈り)主イエス様、私たちは頑固に自分の力に頼ろうとしてしまいますが、どうかあなたを信頼していけるように助けてください。あなたに不安を委ねていけるように導いてください。あなたは最初から私たちが弱い者であることを知っておられて、このままの私たちを愛してくださっていることを教えてください。どうか私たちが、自分と他人を比べて喜んだり悲しんだりするのではなく、あなたがそれぞれに与えてくださっている恵みと希望に感謝することができますように。そして、互いに安心して弱さを見せることができ、許し合うことができる人を、それぞれに与えてください。それぞれの家族、友人、この教会の中で、そのような関係性を育ててください。そのような関係がこの世界の中で私たちから広がっていきますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

私たちは、社会の中で権力や影響力を持ちたいと願ったり、そのような人から恩恵を受けたいと願いがちです。反対に、社会の中で見下されたり排除されたりはしたくないですし、そういう人たちとは付き合いたくないし、一緒にされたくないと願いがちです。そのように弱者を排除して強者であろうとする私たちの姿勢は、イエス様に対する態度にも現れます。もし私たちがそのままでいるなら、私たちはイエス様に失望することになります。イエス様は強者であろうとせず、弱い者を招いて赦して愛される方だからです。

話し合いのために
  1. 自分がイエス様に期待していたことが間違っていたと気が付いたことはありますか?
  2. イエス様が赦して愛してくださっているあなたの弱さは具体的に何ですか?
子どもたち(保護者)のために

イエス様を裏切ったユダのことを、皆さんはどのように子どもたちに説明しますか?イエス様はここでユダのことを「悪魔」と呼んでいます。(別の箇所でペトロのことも「サタン」と呼んでいます。)他の箇所では「生まれなかった方がよかった」とも言われています。イエス様はユダが裏切ることを知っていながら止めませんでした。でも、神様は最初から裏切る役割をユダに与えていたわけではなく、裏切る決心をしたのはユダの責任だと私は思っています。私は、そのようなユダのこともイエス様は十二人の弟子の一人として選ばれた事実の方が重要だと思います。私たちは誰でもユダになる可能性がある弱い者で、そのような者を選ぶのが神様の愛と憐れみと赦しの大きさだと思います。