教会が世界に伝え続けなければいけないこと

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教会が世界に伝え続けなければいけないこと

マルコによる福音書 8:31-35

池田真理

 今日は年明け最初の礼拝なので、本来は新しい年を前向きに歩むための明るいメッセージをするべきなのかもしれません。でも、ここ数年の世界情勢やこの教会の歩み、また能登半島地震が起きたことを思うと、タイトルにしたことを話すべきなんじゃないかと思いました。教会が世界で伝え続けるべきことは何か、ということです。戦争や災害という危機においても、個人の日常の中で起こる困難の中でも、教会には他のどんな人間の集団にも与えられないものを持っています。でも、教会に集う私たちも人間なので、簡単にそのことを忘れて、危機の中で希望を見失ってしまう可能性があります。教会が教会であり続けるためには、そこに集う私たち一人ひとりが希望の根拠は何であるのかを、繰り返し思い起こす必要があります。それは、誤解を恐れずに言えば、人と人のつながりや互いに愛し合うという環境にあるのではありません。そうではなく、ただ神様が私たちのために苦しんで死なれたという十字架の事実が、私たちの希望の根拠です。それが、私たちが本当の意味で互いに愛し合える根拠でもあります。

 今日はマルコによる福音書8:31-35を読んでいきたいと思います。最初に通して読んでみましょう。

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。35 自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。

1. 神様の苦しみと死 (31-32a)

 もう一度、最初の2節だけ読みます。

31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

 これは、イエス様が弟子たちに向けて初めてご自分の苦しみと死と復活を明確に予告している場面です。イエス様は、ご自分が必ず苦しむこと、必ず殺されること、必ず復活することを知っていました。それがイエス様がこの世界に来られた目的そのものであり、神様がこの世界を救うためにできる唯一の方法であり計画だったからです。 

 キリスト教会が二千年間にわたって世界に伝えてきたのは、この事実です。この世界を造られた神様は、私たちを救うために、人となられてこの世界に来られ、人から多くの苦しみを受けて殺されたが、三日目によみがえられた、という事実です。教会が「神様は私たちを愛してくださっている」と伝える時、それは根拠のない理想や願望ではありません。 それは、「神様は私たちのために苦しんで死なれたほどに私たちを愛してくださっている」ということです。これは、他にも多くの言い方で言い換えることができます。もし私たちが苦難の中で「神様は自分を見捨てられたのだ」と思うとしたら、十字架上で神様に見捨てられて絶望したイエス様のことを思い出して、イエス様はその苦しみを知っていると知らなければいけません。もし私たちが社会の不正義に苦しむなら、イエス様もそのことに憤り、犠牲になられたのだと思い起こさなければいけません。そして、イエス様は社会の不正義を正すことを決して諦めませんでした。何よりも、イエス様は、本当の愛とは相手に見返りを求めず、喜んで自分を相手のために犠牲にできることだと教えてくださいました。

 でも、イエス様の時代も現代も、神様が苦しむということや、神様が神様に見捨てられたり、人に殺されたりするということは、人間には非常識的で不可解なことです。 だから、イエス様の十字架を否定したくなったり、十字架よりも復活を強調したくなったりします。 もう一度32節後半と33節を読みます。

2. 私たちの罪の性質 (32b-33)

すると、ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」

 イエス様はペトロを「サタン」と呼び、「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と厳しく叱りました。イエス様の十字架の苦しみと死を否定することは、神様の意志を否定し、その計画を妨げるものだからです。 

 では、なぜペトロはイエス様の言葉を否定したのしょうか?その理由は、私たち人間全てが持つ罪の性質に関わっています。私たちの罪の性質を一言で言うと、自分の罪を罪だと思っていないことです。だから、まさか神様が私たちの罪のために死ななければいけなかったとは思えません。自分の罪がそこまで神様を悲しませているとは思っていないのです。私たちは他人の痛みに鈍感ですし、無意識の差別をしていることに気がついてもいないかもしれません。ウクライナやガザで起こっている悲劇は、ある特定の少数の悪人の罪ではありません。原因を作り出した人がいたにせよ、問題を放置したり、無関心でいたりする全ての人、私たちも含めて、に間接的に罪があります。 

 それから、私たちの罪のもう一つの面は、神様を自分の都合の良いように利用しようとすることです。ペトロを含め弟子たちの多くは、イエス様が自分たちの新しい王になって、自分たちの民族の立場を政治社会的に強くしてくれることを期待していました。だから、イエス様が逮捕されたり殺されたりしたら、自分たちが困るのです。これは私たちも陥る過ちです。自分たちの物質的な繁栄と敵からの勝利のために、神様を利用しようとすることです。 

 教会は神様の栄光を称える場所ですが、自分たちの繁栄を求める場所ではありません。神様の栄光は、私たちの罪を赦すために自ら死なれるという選択をなさった神様の愛にあります。だから、私たちが神様をほめたたえるとしたら、神様が私たちに繁栄や成功をもたらしてくださるからではなく、まず第一に神様が私たちの罪を赦して憐れみを注いでくださったからです。私たちの罪がどんなに重くても、私たちの愚かさによって世界に苦しみがあふれていても、イエス様はもう来てくださったのであり、私たちのために死なれた事実は変わりません。私たちはそこにしか希望を置くことはできませんが、その希望は決してなくなることはありません。 

 それでは次に、もう一度34-35節を読みます。

3. 肉体の生命を超えた命 (34-35)

34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。35 自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。

 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う」ということは、自分中心の生き方を捨てると同時に、その生き方を捨てたくてもやめられないという十字架を背負って、イエス様についていくということです。私たちは、イエス様の十字架の死によって罪を赦されましたが、赦されただけで、私たちの罪の性質は一生消えることはありません。 人を傷つけたくなくても傷つけますし、人を許したくても許せないこともあります。 イエス様のように見返りを求めないで人を愛したいと思っても、私たちの愛はとても乏しくて、すぐに限界が来ます。人の苦しみを共に担う努力をしますが、簡単なことではありません。私たち自身にもそれぞれが抱える悩みや痛みがあり、毎日の生活もしていかなければいけません。私たちはたくさん判断を間違えますし、失敗もします。それでも、この生き方をあきらめないで続けられるのは、やはり、イエス様がもう十字架で死なれたからです。 私たちが間違えることなんてイエス様は最初から知っておられて、「それでもいいから、ただ私についてきなさい」と言ってくださいました。だから、私たちはただイエス様を信頼して、自分の間違いも失敗も隠さずに、歩んでいくことができます。

 このことは、「自分の命を救おうと思う者は、それを失う」と言われていることにもつながります。もし私たちが自分の力で自分を救うことができると思うなら、それ自体が傲慢なことで、間違っています。また、自分の苦しみが解決することを求めるのは間違っていませんが、それは最優先事項ではありません。私たちは、それぞれの苦しみを抱えたままでイエス様についていくように言われているのであり、それを可能にしてくれたのがイエス様の十字架だからです。

 これらのことを信じて、イエス様についていく安心と喜びの中で生きていくことが、「イエス様のため、福音のために自分の命を失う」ということの意味です。イエス様のため、福音のために命を捧げるということは、何か特別な宣教活動に身を投じて殉教の死を遂げるというような意味ではありません。そういうこともあるかもしれませんが、それよりも、イエス様を誰よりも信頼し、イエス様と共に生きることを何よりも喜びとすることです。 私たちがそのように生きるなら、私たちの生き方そのものがイエス様の素晴らしさを示し、それが人に福音を伝えることになります。

 そして、イエス様を喜びとすることは、肉体を持ってこの世界で生きている間も肉体の死後も関係ありません。イエス様を喜びとする人は、肉体の命を超えてイエス様と永遠に共に生きることを楽しみにできます。その喜びは体が死んでから始まるのではなく、体がある時から既に始まっているのです。 

 教会は、このような生き方があり、喜びがあり、希望があるということを、世界に伝え続けていく責任を負っています。繰り返しになりますが、それは、イエス様に先に出会った私たち一人ひとりが、イエス様のことを喜び、信頼して生きていることを示すことによってしか果たせない責任です。週に1回の礼拝の30分か40分のメッセージではその責任は到底果たせません。 どうぞ、これを聞いている皆さん一人ひとりが、もう一度、イエス様が私たちのために苦しまれて死なれた事実に立ち戻ってください。そして、罪を赦されている喜びと畏れを確かめ、イエス様を信頼して生きる喜びと希望を確かめてください。

(祈り)主よ、どうか私たちにあなたの霊を豊かに注いでください。あなたの悲しみと苦しみを、もっと知ることができるように助けてください。あなたは十字架で苦しまれましたが、今日も世界のあらゆるところであなたは苦しんでおられます。どうか、私たちがあなたと苦しみを共にし、あなたが与えようとなさっている慰めと平和を、必要な人に届けることができますように。祈ること、考えること、行動すること、どうか導いてください。私たち自身にも苦しみがあることを、あなたはよくご存知です。私たちが弱い者であることも、あなたはよくご存知です。だから、私たちが自分に何ができるかではなく、あなたが何をしてくださるのか、何を見せてくださるのかを楽しみにできるように、助けてください。主イエス様、あなたの十字架の痛みを覚えます。どうぞ私たちが今年一年の歩みの中で、いつもあなたの十字架に戻ってくることができますように。主イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

戦争や災害などの非常事態ではもちろん、平和な日常の中でも、私たちは多くの苦しみに直面します。「愛し合おう」とか「支え合おう」という言葉は、中身の伴わない虚しいスローガンになってしまうことがあります。教会もその例外ではありません。神様がこの世界を救うために苦しまれて死なれたという事実に基づかず、人のつながりや愛だけを頼りにしていたら、教会は教会でなくなってしまいます。反対に、神様の苦しみと死の意味を忘れなければ、教会は、どんな非常事態でも、どんな苦難の中でも、人々の心に希望と喜びを与えられるはずです。

話し合いのために

1. 33節のイエス様の言葉はどういう意味だと思いますか?

2. あなたにとって教会(またはユアチャーチ)とは何ですか?

子どもたち(保護者)のために

お正月や冬休みの楽しい雰囲気の中で、地震や飛行機事故のニュースが続き、不安に感じている子も多いと思います。神様はなぜ災害を起こすのか、疑問に思っている子もいるかもしれません。災害は神様からの罰などではないこと、大人にも理由が分からないことがあること、でも神様は今辛い多いをしている人たちと一緒にいることを伝えてください。また、被災地で辛い思いをしている子たちが大勢いることを覚えて、一緒に祈ってください。