神様を愛し、神様に仕えます

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神様を愛し、神様に仕えます

ユアチャーチ・カヴェナント1

永原アンディ

1. ユアチャーチカヴェナントとは?

 多くの教会では、信仰を持ってバプテスマ=洗礼を受けた人がその教会のメンバーとなります。ユアチャーチのメンバーシップはそうではありません。

 私たちは、その年の初めに、心新たに大切な約束を守ることを約束して、新しい一年をイエスと共にユアチャーチのみんなとともに歩むのです。牧師やリーダーたちも例外ではありません。MLBの大谷さんのような10年契約ではなく単年契約です。でも、継続したければ何回でも次の契約を結ぶことができます。誰も神様や教会から戦力外通告されることはありません。

 私の信じる教会のあり方を、私はいつも「3階建ての家」にたとえて説明していますが、一階が「神様を愛し、神様に仕える」、2階は「互いに愛し合い、仕え合う」、そして3階が「世界を愛し、世界に仕える」です。そして私たちの誓いはこの在り方に即して、1)「神様を愛し、神様に仕えます」、2)「互いに愛し合い、仕え合います」、3)「世界を愛し、世界に仕えます」というものです。二階や三階のない平屋建ての家はあっても、一階のない二階建て、三階建ては成り立たないように「神様を愛し、神様に仕える」ことなしに「互いに愛し合うこと」も、「世界を愛する」ことも不可能です。イエスに従って人生を歩みたいと思う人はそれが最優先のことなのです。イエスはある律法学者に「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と問われ、旧約聖書の申命記を引用してこう答えました。

イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 (マルコによる福音書 12:29, 30)

2. 神様を愛する、神様に仕えるとは?
a. そもそも、愛するとはどういうことか?

 ユアチャーチカベナントは「愛します、仕えます」という誓いです。

「仕えます」は「あなたの僕となります、あなたのために働きます」とわかりやすいと思うのですが、「愛します」がどのようなことを意味するのか、皆さんにとっては明白なことでしょうか?愛って何ですか? 

 神様を形容した最も短い言葉は「愛」です。愛という漢字は、人に物を与えるという意味から始まって、その人を大事にすることという意味に使われ、その人が「好き」という意味でも使われるようになりました。英語のLoveの語源も、誰かを喜ばすことを意味する北欧系の古語だと言われています。どちらも今では「大好き」という自分の気持を表す言葉として使われるのが普通です。

 ところが自分の「大好き」という気持だけに従って生きるなら、人を喜ばせるのではなく、悲しませる傷つけることになりがちです。そうなると「愛」は一番基本的な意味を失う事になってしまいます。この使い方でいうなら、神様は私たちのことが大好き、ということになりますが、神様の愛は語源の意味に近いのです。

 つまり私達が喜んで生きるために、御自身の犠牲を厭わない方、それが十字架で苦しまれた私たちの主、イエス・キリストです。新約聖書が書かれたギリシャ語には、「愛」と現代語に訳している言葉が複数あって、意味によって使い分けられています。その代表的なものは「エロース」と「アガペー」です。「エロース」は想像できると思いますが、欲望に近いものです。それは自分の「好き」という気持ちを表す言葉で、自分の手に入れようとする方向性を持っています。「求める愛」と言ってもいいでしょう。

 それに対して「アガペー」は、見返りを求めない。それどころか、その人の喜び、幸せのために犠牲を払うことを惜しまない、手放して与えようとする「エロース」とは正反対の方向性を持つ、「与える愛」です。聖書が愛しなさいという時、それは「アガペー」を指しています。ところがこの愛は、私たちの内側に自然にあるものではないのです。もしそうであったら、世界は神様がいなくても誰もが平安で幸せであるはずです。

 ヨハネの手紙1、4章に、愛である神様との関係の中で愛されていることを知り、愛することが出来るようになる、と書かれています。だから、愛が私たちのうちに現実となるためには、まず、私たちを愛していてくださる神様の愛が私たちのうちに現実となければならないのです。

b. そこで、神様を愛する、神様に仕えるとは?

 先週池田牧師が紹介してくれたイエスの言葉を覚えていますか?

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。 自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。 (マルコによる福音書 8:34,35)

 神様の愛が自分のうちに実現し愛する者となるためには、まず神様との関係を何よりも大切に育まなければなりません。そしてそれは神様を礼拝するということが生活の中で最優先順位にあるということを意味しています。だから、カヴェナントには「私は礼拝を生活の中で最優先することによって」神様を愛し、神様に仕えます、とあるのです。

 愛するとは、何よりも相手と共にある、親密な時を過ごすことです。物質的な必要を満たしても、相手のために使う時間を惜しむなら、愛していることにはならないのです。

 ただ、ここで私の言う礼拝は皆さんが想像している事柄とは少し違うかもしれません。 礼拝とは、日曜日の朝、こうして共に捧げているこの時間のことを指しているのではありません。それは、皆さんが神様と親密に過ごす時のことなのです。この日曜の朝もそれに含まれるのですが、いつでも一人で、あるいは誰かと共にできることなのです。ですから、日曜日の朝は何をおいてもユアチャーチの礼拝に出席しますという約束ではないのです。

 ユアチャーチは礼拝や集会に出席しなさいと言われないので、ユルい教会だと思われている節がありますが、それは誤解です。多分、「毎週日曜の朝、ここに来て1時間半座っています」という方が簡単な約束だと思います。あなたと神様の親しく過ごす時間を監視してくれる人はいません。タイムカードもありません。相手であるイエスも、「もっと私といてください」とは言わないでしょう。

 そうこうしているうちにイエスと遠く離れてしまい、結果として、大きな問題に突き当たった時に誰も愛せない自分、自分さえ愛せない自分の姿に気付くことになった人は少なくありません。

 ユアチャーチでは、礼拝という日本語だとどうしても、日曜の朝のこの時間というイメージが強いので、英語ではありますが「ワーシップ」と表現することが多いのです。

来週は池田牧師がカヴェナントの続きの「互いに愛し合います、世界を愛します」について話してくれます。そして再来週は、その「ワーシップ」のささげ方についてお話しします。

c. 肉体の生命を超えた命 (34-35)

 「神様を愛し、神様に仕える」方法はカヴェナントでは「礼拝を生活の中で最優先することによって」だけでなく、もう一つの事柄があります。それは「十分の一の献げ物によって」です。

 自分の持っているものを神様の働きのために献げる。それは神様への愛を表す、礼拝の一部です。ですから多くの教会では日曜日の礼拝のプログラムの中で献金の時があります。私たちも献金が礼拝の大切な要素だと信じていますが、メンバーではない方も多く来てくださっているので気兼ねしないですむように、礼拝のプログラムの中に献金の時はありません。用意がある人が自分で献げられるようにBOXを置くだけにしています。

 私たちは、旧約の民が、収穫や生まれた家畜の1/10をささげるよう神様に求められていた(マラキ3:10)ことを根拠に、これが私たちに求められている基準であると考えているのです。ある人々は、この十分の一という割合を現実に守るべきだと考えますが、私たちは「基準」と考えています。一人一人の生活の状態によって、その基準が困難な人も多いでしょう。ですから、基準に達しないことをうしろめたく思う必要はないのです。反対に平均的な人の何倍も収入を得ている人なら十分の一は恥ずべき金額かもしれません。

 イエスは、今日最初に紹介した「一番大切な掟」に続く部分(マルコによる福音書12章)で献金に関してこう言われています。

41 イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
42 そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。
44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 イエスは皆さんに、「このやもめのように生活費の全てを献げなさい」と言ってはおられません。金額ではなく、その人の献げる心を問われるのです。聖書は、献げ物は誰かに強制されてではなく自発的なものであるべきとも教えています。

つまり、こういうことです。惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(2コリント9:6, 7)

 ユアチャーチのリーダーたちは誰にいくら収入があり、いくら捧げているということを知りませんし、知るつもりもありません。これはひとりひとりと神様との契約なのです。キリストの体である教会もこの社会に存在する以上コストがかかりますが、ユアチャーチには年間予算という考え方がありません。メンバーが誠実にささげる額が、ユアチャーチが神様の働きのために使える金額であるということです。それぞれが「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりに喜んで」献げましょう。

(祈り)神様、今年もあなたを礼拝することを第一のこととして歩みます。
どうか私たちの捧げる礼拝の中で、私たちに語りかけてください、あなたの奇蹟を見せてください、癒してください、必要を満たしてください。
私たちはあなたの豊かな恵みを携えて互いに愛し合い、そして人々を愛する者として歩みます。 どうぞ私たちの働きを、献げ物を用いてください。
イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

 神様の愛が自分のうちに実現し、愛する者となるためには、まず神様との関係を何よりも大切に育まなければなりません。そしてそれは神様を礼拝するということが生活の中で最優先順位にあるということを意味しています。だから、私たちはカヴェナントの第一のこととして「私は礼拝を生活の中で最優先することによって、神様を愛し神様に仕えます」と約束します。礼拝とは、日曜日の朝の集まりに限らず、いつでも、どこでも、一人でも、誰とでも持つことのできる神様と親密に過ごす時です。

話し合いのために

1. あなたは神様をどのように愛しますか??

2. 「十分の一の献げ物」とは何ですか?

子どもたち(保護者)のために

マルコ12:28-30を読んで、神様を愛するとはどういうことか話し合ってみましょう。一般的な「愛する」こととの比較から始めてもいいと思います。