主の名によって祝福する

David Hayward @nakedpastor (https://nakedpastor.com/)
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日曜礼拝・英語通訳付

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主の名によって祝福する
(詩編 129)

永原アンディ

1 都に上る歌。「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。」さあ、イスラエルは言うがよい。
2 「私が若い時から、彼らは大いに私を苦しめた。しかし、私に勝つことができなかった。
3 悪しき者らは私の背に鋤を当て長い畝を作った。」
4 主は正しい。悪しき者らの縄を断ち切ってくださった。
5 シオンを憎む者らは皆、恥を受けて退け。
6 抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。
7 刈り入れる者はその手を穂を束ねる者はその懐を満たすことがない。
8 傍らを通る人々も「主はあなたがたを祝福される」と言うことはない。私たちは主の名によってあなたがたを祝福する。

1. すべての人に対するイエスの呼びかけ

 イスラエルの民が歴史の中で大変困難な歩みをしてきたことを、皆さんは今まで詩編を読み続けてきてよくご存知だと思います。アジア、アフリカ、ヨーロッパの接点に位置する中東の小国として、イスラエルは次々に歴史に登場してくる大国に苦しめられ続けてきました。
 旧約時代にはアッシリアやバビロニアに苦しめられ、イエスが地上におられた時代にはローマ帝国の支配下に置かれていました。やがて国土を失い、偏見と迫害にさらされ続け、ついにはナチスによる大虐殺に至ったのです。第二次世界大戦後、イスラエルは戦勝国の後押しで1948年に独立したものの、紛争は絶えず、今も大きな衝突が起こっています。

 イエスを信じる私たちはこの事態をどう見たらよいのでしょうか?ある人々は、今起きている争いについて「キリスト教徒なら当然、無条件に”神様の民”であるイスラエル側に立つべき」だと言っています。この意見に従うなら、「イスラエルの勝利が神の意思であり、パレスチナ人は出て行くかイスラエル政府に服従するべきだ」ということになります。
 確かに神様の計画の中で特別な役割を担わされてきたという意味ではイスラエルは特別な民です。しかし、彼らに何の問題もなく、邪悪な諸国に一方的に蹂躙されたということではなかったことは旧約聖書の全体を通して見れば明白なことです。神様はイスラエルの不信仰、不従順を憂い、預言者を通して警告を与えてきました。

 イスラエルの民は神様と人との関係において別格的な存在なのではなく、代表的あるいは標準的な存在なのです。イエスが来られたのは、神様と人類の和解の最後の提案として神様から差し出された出来事だったのです。それはご自身を一人の人、イエスとして人々に指し示し「私に従ってきなさい」という呼びかけでした。それは、すべての人に対する呼びかけであって、ユダヤ教徒も例外ではありません。
 私はイスラエルとパレスチナとの対立について、キリスト教徒なら無条件にイスラエル側に立つべきだという考えは間違っていると思います。もちろん無条件にパレスチナ側に立つべきだということではありません。どちらも神様の意に反していることを行っています。
 しかも、どちらも民の意思ではなくそれぞれの権力者たちの意思です。そして命を奪われているのは権力を持たない者たちです。

 イエスが来られる前のイスラエルの歴史の中で、神様は指導者が間違った道を進む時、預言者を通して警告を与えました。しかし多くの場合、指導者たちは預言に耳を傾けず、事態をさらに悪くして民の苦しみは増したのです。
 神様の救いの歴史において、イエスは最後の預言者という言い方もできるでしょう。イエスご自身が次のような例え話をなさっています。

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して、長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋叩きにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、別の僕を送ったが、農夫たちはこの僕も袋叩きにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。さらに三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせて放り出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。私の愛する息子を送ろう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』しかし、農夫たちはその息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。(ルカ20:9-15a)

 イエスは相手がユダヤ人であろうと異邦人であろうと判断の基準はブレません。その基準は「愛と正義」です。しかし、人間の愛と正義はどちらも不完全で、しかも自己中心的です。

そのような人間が聖書を表面的に読めばそのような態度を正当化してくれる権威の拠り所とすることができます。これは、今までもお話ししてきた聖書をどう読むか?聖書はどのような意味で「神の言」なのかという問いとも関連しています。旧約聖書を文字通り自分に向けられた言葉と受け取るなら、異教徒を滅ぼすことが正義ということになります。

2月はほぼずっとアメリカにいましたが、今年の大統領選挙に関連して、メディアで「キリスト教ナショナリズム」という言葉を聞かない日がないほどナショナリズムと結びついた教会が大きな影響力を持ちはじめていることが分かりました。しかしイエスの福音はナショナリズムとは無縁です。むしろ人間の作り上げる権力や組織が小さな者、弱い者、少数者を顧みないものになりやすいことをイエスは知っておられます。

2. 祝福が福音を届ける

 ところで、今日のテキストの最後の節は日本語の協会共同訳と英語のNIV とで大きく意味の異なる訳がなされています。これまでのほとんどの日本語訳はNIV同様にこう訳されています。

傍らを通る者が「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によってあなたがたを祝福する」と言わないように。

ところが協会共同訳はこう訳しています。

傍らを通る人々も「主はあなたがたを祝福される」と言うことはない。私たちは主の名によってあなたがたを祝福する

つまり全く正反対の意味になってしまうのですが、今の私たちの持つ、古代へブル語から現代語に訳すためのリソースでは、どちらにも訳せ、どちらかには断定できない原文なのです。以前の訳やNIVの方が流れとしてはすっきりしているでしょう。

 しかし、現代の世界のキリスト教のあり方を見る時、この新しい訳の視点はとても重要に思えるのです。

 自分の敵や自分を苦しめるものを誰も祝福したくはないでしょう。周りの多くの人が祝福することを望まない人で、しかも自分もその人に苦しめられているとしたら、そんな人をあえて祝福するというのは無理があります。しかし、イエスの言葉を思い起こしてみれば、神様の普遍的なメッセージとしてはむしろこちらの方が筋が通っていると思えるのではないでしょうか?

 これは平行テキスト(おそらく両者が同じ場面を描写していると考えられるテキスト)ですが、ルカとマタイの両方から読んでみたいと思います。

「しかし、聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:43,44)

詩人がどちらの意味で歌ったのかは断定できません。しかしこの訳はイエスの考え方を先取りしています。

(今までの教えは憎めだったが)敵を愛しなさい

あなたを憎む者に親切にしなさい

あなたを呪うものを祝福しなさい

侮辱する者、迫害する者のために祈りなさい(不幸を祈るのではありませんよ!幸いを祈るのです。不幸を祈るのは祈りではなく呪いです。)

 しかしそのようなことがどのようにして可能なのでしょうか?どのようにして自分を苦しめる者を祝福できるのでしょうか?親切にすることができるのでしょうか?愛することができるのでしょうか?そんなことできるわけがないと思うのは、私たちがそれらの概念を誤解しているからです。

 祝福するとは、その対象が強くなる、大きくなる、富むための祈りや宣言ではなく、神様の意思にかなう者となること、神様とともにある者であるようにとの祈りであり宣言なのです。神様はすべての人を愛しておられます。極悪人でも、自分の悪に気付きご自身のもとに帰ってくることを願っておられることは、有名な放蕩息子の例えでも明らかです。

 聖書の中で最も短い神様についての説明は”愛”です。イエスの示された愛はどのようなものだったのでしょう。それは自分の命を惜しまず与えることでした。私たちは「そんなことは無理」と思います。

 しかしイエスは、イエスと共に死ぬと宣言したにも関わらず自分の命を惜しんでイエスの弟子であることを否定したペトロを赦しましたし、その彼にキリスト教会を始めなさいと命じたのです。

 イエスのように完全な愛を示すことのできる人は一人もいません。私たちのできることは、そのイエスに従って歩き、不完全であっても神様の霊、イエスの霊である聖霊に助けられ、また、それぞれがつなぎ合わされているキリストの体である教会の部分として互いに助け合いながら、イエスの愛を表すことです。

 イエスの福音は「祝福と呪い」「愛することと憎むこと」という、人の罪の性質が作り上げたの二項対立の構造を破壊し、神様の創造の秩序を回復するものだったのです。イスラエルの政治的権威も宗教的権威も自分達の正当性を脅かすイエスの福音を受け入れられず、彼を十字架につけてしまいました。

 世界は今だに旧約の世界観のもとにあるというしかありません。しかし、イエスの福音を信じた私たちは、イエスの方法でで世界を愛し祝福できるのです。イスラエルのためであれ、ウクライナのためにであれ、飢餓に苦しむ地域のためにであれ、自分の国の問題についてであれ、自分の周りの人々のためであれ、私たちが考えるべき事、祈るべき事、なすべきことの本質は変わりありません。 それは、私たちがそこにイエスの愛と正義が表されるよう、人々がイエスに出会い神様の愛を知ることができるようにに祈り、人々を祝福し、自分のなすべき小さな一歩を踏み出す事です。

(祈り)

神様、あなたに従って歩む者とされた恵みをありがとうございます。 
私たちがあなたを知ることができるようと祈り祝福し、親切にしてくれた人々を備えてくださってありがとうございます。
どうぞ私たちも、様々な状況に置かれた人々のために、祈り、祝福し、親切にすることができるように、あなたの霊で満たしてください。
あなたの愛と正義を表すあなたの体の一部として歩むことができるように導いてください。
私たちの主、イエス・キリストの名によって祈ります。


メッセージのポイント

自分を苦しめる者に対して、私たちができることは呪うことではなく祝福することです。祝福とは、その人が神様の愛に気付き、神様と和解することです。人は神との和解によって、自分のではなく神様の正義を求める者となれます。

メッセージのポイント
  1. マタイ5章、ルカ5章のイエスの言葉にあなたはどう応えますか?
  2. 祝福するとはどのようなことですか?
子供達のために

葡萄園の例え話(ルカ20:9-15a)を一緒に読んで、子供たちに自由な感想を述べさせてください。そして、今レント(イエスの十字架をいつも以上に深く思う、受難と復活の前の4週間)の期間であること、イースター(今年は3/31) が近いこと、イエスご自身が十字架にかけられることの予告であったことを伝えてください。